「鹿角」
 
△五 鹿角と特産
<鳴き鶉本場としての鹿角>
 大正七八年の頃、欧洲は戦乱の余燼、尚未ださめずに居ったとき、都鄙の隔てなく、 津々浦々に迄流行の手を伸ばしたものに「鳴き鶉ウズラ」のあったことは、尠くも新聞を 読み、雑誌を手にして時代の趨勢を理解して居る人の記憶に新なことゝ信ずる。
 大名華族の高貴な方々を始め、成金世界の人々、扨ては卵の滋養分によって一儲け、 生活難を避けやうとした副業標榜の人たちからモテ囃された、所謂鳴き鶉の本場は、 知る人ぞ知る、実に我が鹿角郡花輪町であったのである。
 
 明治二十年の頃、郷土の素封家吉田清兵衛なる人、鳥禽を愛育して措かず、毎年東京に 出ては金銭を惜しまず、優良の逸品を購ひ、飼育したのであった、所謂鶉本種の鹿角に 入った抑々の濫觴である。
 鶉に就いては、相当に広く研究された今日、尚鳴き声にすら如何なるものを最と為す べきかについての決定を有しておらないと云ふ、其の当初、鹿角花輪の鳴き鶉の本場 たらしむる迄に尽された、吉田氏の功労と技能は偉大なものと謂はねばなるまい。
 
 鳴き鶉本種を別に駿河とも云ふ、けれど決して駿河が原種と云ふことでは無からう、 即ち伝へ聞く所に依れば、富士の裾野に、何処よりとも無く飛び来つた鶉が、所謂 本種であり、それを飼育して、他に売り出したのが駿河と云ふ通称を得たのだと云ふ けれど、其本場たる駿河には、今全く鶉の声を聞くことが叶はない状態から推測しても、 本場ではないことは明かである、以前は讃岐の国に此の本種が多くあったと云ふけれども、 今日は殆んど跡を絶えて了ひ、明治三十年前、東京に駿河鶉が相当飼はれたらしいけれど、 同三十二三年頃に至っては、逸品として賞すべきものが少しも無かったと云ふ。
 
 其間に於て、所謂駿河本種の飼養管理を研究し、繁殖せしめて居ったのは、本郡花輪町 の養鶏家であった。
 吉田氏の弟吉田新作、分家吉田和助、或は黒澤吉太郎氏、殊に現在鳴鶉界の権威として 全国に其人ありと知られて居る伊藤文太郎氏等の苦心研究に俟って、漸く斯界本場たる の名誉をとりえたのである。
 津軽は鶉の盛んなる点に於て、日本一であらうけれど、今日の盛大を致した抑もの源を 尋れば、皆鹿角鶉の輸入に外ならぬのであった。
 伊藤氏は明治三十五年の頃から、毎月花輪より数十の鶉を携へて、津軽の同好者に売った ものだと云ふ。
 
 次いで四五年前迄、久しく弘前に居を移して鳴鶉界の開拓に尽し、今日盛大の基礎を 築いて郷里に帰ったのである、
 大正八年の如きは、新機軸を開くべく、当人の夢想だも及ばぬ十二月の孵化を試みて 正しく成功し、寒気凛冽、雪中の二月に優良の鶉を出して、津軽人を驚嘆せしめたので あった、斯の時の如きは、実に終日孵化室に籠城、温度の加減、飼養管理に当り、一命 を賭して真剣に力めたと云ふ、それかあらぬか、第三回全国鶉及チャボ共進会が東京市 上野公園に開催の砌り、氏の出品せる「雲龍」一番ひは、特等賞の首席を得、且つ会長 野田男爵に懇情せられて、審査員の嘱託をも受けたのである。
 
 今上陛下、東宮殿下にましまして東北御行啓、小坂鉱山にお出での時、本郡特産の一と した鳴鶉献上に及び、御嘉納を得た外、時折り宮殿下に献上に及んで居る事は、特に 光栄としなければならぬ。
 鶉は鳴く玉音、艶音の美妙なるのみならず、卵の滋養価値に富み、医療以上下痢、腹痛 に速効があると云ふ、伊藤氏の外、吉田和助、賀川芳五郎、西村忠次郎、石川俊藏氏其他 の同志、相はかって花輪鶉同好会を結び、時々品評会等を開催して居る。
 毛馬内町に於ても、相当飼養せられて居るけれども、皆花輪鶉の移入に外ならぬと 云ってもよい位である。

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