鹿角の近代人物伝2
 
…… 教育と地方自治に貢献 ……
△宮城佐次郎(一杉)   1881-1951
 宮城佐次郎は花輪六日町に生まれた。
 鹿角の小学校教員・校長を勤めた後、尾去沢村長・町長となり、退任後は、花輪図書館 館長兼花輪町史編纂委員となった。生涯を郷土の子弟教育に捧げ、一方では若い人たちに 郷土の歴史を知ってもらいたいと云う念願のもと、花輪町史や尾去沢鉱山小史などを執筆 した。
 
 明治三十九年頃、宮城佐次郎がたまたま蒸の湯に湯治した折、付近一帯を踏査して、 八幡平高原の絶景に感嘆し、それを文筆で紹介したのが、八幡平が世に知られる端緒と 云われている。
 
 尾去沢小学校長であった宮城佐次郎は、大正十二年、尾去沢鉱山幼稚園の設立に関与している。
 宮城は一杉と号して俳句をたしなみ、また昭和の初め頃には花輪短歌会などにも所属し、
 風呂あびて月光仰ぐ峯の上に 雪が見えます寒い風です
などを詠んでいる。
 
 昭和十一年十一月三日、鉱山協和館において、尾去沢町制実施並びに役場新築落成祝賀会 が盛大に行われた。宮城佐次郎町長は「従来尾去沢は政争の波紋もなく、鉱山、役場、学校 が三位一体となって平和的な自治体を建設して参りました」と述べた。
 同月二十日午前四時すぎ、降雨で警戒中の中沢鉱滓沈殿ダム池が大音響とともに、一瞬の うちに決壊した。ダム真下の谷あいに密集していた町の中心市街地は、忽ちのうちに、 かけ下る泥流に押し流されのみ込まれ、惨憺たる光景の中に、多くの人命が失われた。 死者・行方不明三六四名、重傷者八一名、罹災世帯数三二二と云う、わが国における鉱山災害 の最大の事件となった。
 変災後ほぼ三ケ月にしてようやく復興計画が動き出した。町と鉱山が一体となり、力強く 建設の道を進みだしたのである。
参考:鹿角市史
 
リンク:「尾去沢鉱山ダムの欠潰事件」

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