鹿角の近代人物伝2 |
明治四十五年七月に発刊された、花輪花田栄太郎(旭峰)編『かづの』の短歌の部に 露星(高杉重右衛門の号)の作品が載っている。 彼の紅き灯慕ひて夜毎行く かなし蕩児のうしろ姿よ 錦木塚 折にふれ涙も流し打ちもせし 思ひ出多き此の古机 此の古机 革命の群れにまじりて一と旗を あげて来よとの友のざれかな 同 大正八年八月、秋田魁歌壇(遠藤桂風選)に露星高杉重右衛門の「鹿角むらさき」 と題する八首一連が載った。これに選者も和すると云う異例の扱いをした桂風は、 大正期のさきがけ歌壇を担当し「県内の新進歌人にしてほとんどその薫化を受けざる ものはない」(安藤和風)と云われていた。 今もなほ京雅人アデビトの恋語る むかしながらのかづのむらさき 露星 むらさきを姉にあかねを妹に なざらへし代を今日にして恋へ 同 天正の遠き昔ゆみちのくに 染めしむらさき都にほこらむ 寄紫根 桂風 与謝野鉄幹に私淑した師の桂風と同じく、露星の短歌には明治のロマンチシズムと 生活派短歌の色彩が強く、郷里の伝説に発想した短歌は人々の感傷を誘った。 昭和六年作詞の花輪小唄には、小田島樹人が曲を付した。 高杉重右衛門は尾去沢の生まれで、村会議員から県会議員、更に町長を一期、 農協組合長も歴任した。 即ち同二十二年四月に行われた全国一斉の第一回統一地方選挙により、尾去沢町長に 選ばれた。また県会議員にも保守派として当選している。 また、戦後の農地改革に続いて行われた土地改良、つまり秋田県 土地改良協会の副会長理事として尽力された。 参考:鹿角市史
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