鹿角の近代人物伝2
 
…… かづの古代茜、紫根染の大家 ……
△栗山文次郎   1886-1965
 鹿角の紫根染は、大正の初め頃は壊滅寸前の有様であったと云う。
 紫根染は古代紫として、全国的にみても鹿角にのみ伝承され続けてきた秘法と云う べきものであった。大正天皇御大礼奉祝のため、全国陸軍将校団より古式の太刀一振を 奉献することとなり、大正五年その平緒ヒラオの染色委嘱されたのは、花輪町阿部松五郎である。 また明治神宮奉納の大鎧の紐・緒全てを同町小田切猪太郎において、茜染に染め上げたものである。 同六年、栗山文次郎がその生産量の増大を図り、鹿角紫根染製造所を新設した。
 また栗山文次郎は、盛んに「本場かづの古代・紫絞ムラサキシボリ」として新聞広告し、染料は 殺菌性の強い紫根を用い伝染病予防効果に勝れていること、決して変色しないこと、三越 呉服店名産品陳列会にて夜具布団襦袢下着用として好評を博したこと、などを強調した。
 そして、秋田県の各種競技会に出品して、幾度となく入賞するなどして、鹿角の紫根染は 秋田県若しくは東北地方の特産品として名声を高めた。
 
 ところで、紫根染・茜染は、鹿角地方に産する野生のムラサキやアカネの根を染料に、ニシコオリ の木(サワフタギのこと)の灰を媒染剤とし、古代紫とも云われている鹿角の文化の古さを 代表する染色の技法である。幕末には毛馬内と花輪に十数軒の染物屋があったと云われている が、明治以降は手間と時間がかかり過ぎることや、原料のムラサキ・アカネの入手難から、 染色の技法を継続していくことははなはだ困難な状況になってきた。
 染模様には、絞柄の大升・小升・立枠・花輪絞りの四種類があり、単純な中にも古雅な趣がある。 かつては木綿にも染色していたが、近年は主に羽二重などを使い、高級反物として売られた。 紫根染・染染の着物や夜具は湿気を呼ばず、身に着けると病気にならないとか難病を防ぐと云われた。 特に痔・肺病・くさ・瘡などには効果があると口伝され、こうした効果を利用して湯治の人に湯見舞 として紫根染を贈ると云う風習もあった(華岡青洲の作った痔の妙薬「紫雲膏」の主原料は 紫根である)。
 
 この染色の技法を復活させて、伝承させたのが栗山文次郎である。これは昭和二十八年十月に 国指定の無形文化財となり、その子文一郎は同五十三年秋田県指定の無形文化財となった。
 しかし文一郎の死後は、その技術を伝承する人もなく、染色に使用した用具や染物などが、 鹿角市の有形民俗文化財として保存されている。この技法を後世に残すためにも、 技術者の育成と原料であるムラサキ・アカネの栽培育成が緊急の課題となっている。
参考:鹿角市史
注: 「歌枕蘇生」(歌枕の「錦木」とは外)の項参照

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