鹿角の近代人物伝
 
…… 文化運動に生涯を捧げた ……
△阿部六郎(胡六)   明治二十六年(1893)〜昭和四十九年(1974)
 胡六こと六郎は、前市長阿部新氏の厳父である。明治二十六年六月九日、達識の名郡 長小田島由義・才女ハツの六男として花輪に生まれた。
 小田島家は花輪第一の御給人であり、井桁屋という間口十二間、奥行九間の大店酒造 店も経営する、由緒ある富裕な旧家であった。従って六郎は、少年期を物心共最も豊か な旧家で成長した。然るに三十八年八月、両親が傷病兵慰問で青森に出張中、花輪の大 火で全焼した。不運なことに、分家昌蔵に経営させていた為替扱所(通称銀行)も類焼 し、預かり金一万五千円も焼失した。天災っても通るのに、由義は全財産を提供し てこれを弁償した。
 
 無一文になった由義は、家族と共に東京青山に移住し、炭屋となった。無一文になって も、袴持を捨てなかった一家に守られ、六郎は青山学園中等部を経て高等部に進み、大 正五年同校を優秀な成績で卒業し、英語科の免許を授与され、十二年三月の秋田出向ま で、栃木、静岡で教鞭をとった。
 秋田での最初の任地は大中で、文学を解する話せる教師として、全生徒の信望を集めた。
 この間、九年に温厚篤実な人柄を見込まれ、新蔵(百助)長女エツの婿養子に迎えら れた。エツは才色兼備の才女で、数十町歩の小作地と百助(旅館)の家政一切を切り盛 りした。従って六郎は、後顧の憂いが全くなく、文化運動に挺身することが出来たので ある。この年、陸軍少尉正八位に叙せられている。
 
 この頃から氏の文化運動は本格化し、宮田修の白百合会に共鳴し、舎生や一般婦人の 修養会を創立し、当時一般人の手の届かなかった世界の名曲を感賞させた。
 戦後、人心荒廃の折、採算を度外視して、ピアノの世界的演奏家安川和子、平岡養一 、芸大から弦楽四重奏など、次々と一流の芸術家を招き、都市の文化運動を育成したが 、氏は又全郡の合唱団の統一をなしとげ、謡曲民謡の造詣が深く、会長としてこれを育 成し、日本一の民謡歌手を育成したことも特筆すべきである。
 
 氏は俳号を胡六と称し、渡部水巴の高弟として、俳詩「曲水」の選者として名声が高 く、後、増田手古奈に師事した。恩徳寺守礼の門の傍らに、胡六夫妻の句碑がぴったり とよりそうように建っている。
 氏は公職を好まなかったが、昭和二十七年公選教育委員に当選し、教育行政に貢献す ること大であった。又、蓮池知事に懇望され、名通訳として渉外事務を担当したことも 特筆すべきである。
 氏の多年の文化運動に対し勲六等に叙せられ、秋田県芸術文化章を授章し、(鹿角) 市文化功労章を贈って功をたたえている。
 
 鹿角の文化運動の慈父として、鹿角の文化を一層香り高いものに育成した氏は、同四 十九年六月十七日市民哀惜のうちに病没した。
胡六夫妻句碑
句碑のある「恩徳寺」

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