鹿角の近代人物伝
 
…… 地方自治・産業振興に尽力した ……
△渡部繁雄   明治十九年(1886)〜昭和五十一年(1976)
 渡部繁雄は、康民・リツの長男として明治十九年五月十三日、八幡平石鳥谷に生まれた 。父康民は中野(花輪南部)済愛の五男で、御給人渡部文蔵の養嗣子になった人である 。
 
 繁雄は、幼少のころから神童といわれる程の秀才であった。曙小学校を抜群の成績で 卒業し、花輪小学校高等科を経て、創立間もない大館中学校に進んだ。大館中学校の第 一期生である。中学校を卒業後、中央大学経済学部に進み、四十三年優秀な成績で卒業 して、東京の丸善株式会社に就職した。しかし、地元の強い要望により、大正二年丸善 を退社し、郷里に帰った。
 
 ふるさとにはいろいろな問題が山積みしており、繁雄は翌三年九月、曙村助役に就任 し、村政の刷新にあたった。六年には曙村村会議員に、八年には鹿角郡会議員に当選し 、九年三月には曙村村長となった。
 
 繁雄は村政の改革や近代化ばかりでなく、貧しい村の振興のために、農業の改革に熱 意を示し、養鶏・養蚕や林業の指導に尽力した。その指導の特色は、まず、自分で試みて 十分採算がとれる目算がついてが、はじめて農民に薦めたことである。曙村が県内そ菜 栽培の先進地となったのは、繁雄の指導によるところが大である。
 
 昭和十一年に村長を後進に譲り、農協組合長となった。これは、畑地を活用して、多 角的農業を進めるためであった。太平洋戦争末期には、困難を究めた村政に当たってほ しいとの希望に応え、十九年再び村長となったが、組合長時代の業績には特筆すべきも のがある。これは、弱い単位農協力では郡の発展が期せられないとして、農協の大同団 結を提唱し、幾多の難問題を克服し、三十八年これを成し遂げている。そして四十五年 に後進に道を譲るまで、組合長として農協の基盤をつくった。また、繁雄が育成した農 業団体は枚挙にいとまがない。
 
 これらの功績に対し、秋田県から文化功労賞、国からは勲五等瑞宝章を贈られている 。同五十一年一月二十二日九十歳の天寿を全うして、公正誠実な生涯をとじた。

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