鹿角の近代人物伝
 
…… 農村電化の先覚者 ……
△阿部貞一   明治二十八年(1895)〜昭和二十五年(1950)
 大正期、郡内にさきがけて八幡平地区の電化のために献身的に努力したのが、阿部貞 一である。
 貞一は、明治二十八年五月十二日、重剛の長男として八幡平長嶺和田に生まれた。父 を早く病気でなくし、働き者の祖父平次郎に育てられ、その血をひいてか一徹で情熱的 な、成績の良い少年であった。
 
 花輪小学校を卒業して、東京の電気学校に進み、その後東京の電気会社に就職したが 、間もなく病気のため帰郷し、三菱金属尾去沢鉱業所の伝記主任に、のち碇発電所主任 (永田兼務)となった。当時八幡平には、碇・永田の両発電所があったが、その電力は鉱 山用で、一般家庭に電気は無く、しかも洋ランプはまれで、大抵は手ランプと称する豆 ランプと松の根を燃やすものであった。また、稲の脱穀調整もすべて手作業で行われ、 仕事は正月近くまでかかった。
 
 貞一はこうした貧しい百姓を見るにつけ、電気を導入している明るい電化村にするこ とが、農村振興の道だと確信したのであろう。早速本社におもむき、碇・永田の夜間余剰 電力の無料送電の約束を取り付けた。村の電化計画を当時の宮川村長阿部藤助に相談す ると大賛成で、資金はなんとかするから早急に実現して欲しいと言われた。それから宮 川・曙両村の、畳六帖程の大図面が、和田の奥座敷に持ち込まれ、暗いランプの下で設計図 の書き込みが始まった。苦闘一年、大計画はみごとにでき上がり、懸念された資金も目 途がついて、大正十一年南鹿電気株式会社が設立された。
 
 導入戸数は宮川五〇八、曙三八九、臨時灯二〇五である。社長は全面的に協力を惜し まなかった曙村長渡部繁雄、そして技師長が阿部貞一であった。こうして待望の農村電 化が完成し、家々には明るい電灯が灯り、農作業も画期的に改善された。
 貞一は、このほか生野鉱山へ移ってからは、日本電研工業会社を創立、また観光事業にも力 を入れ、昭和三年に姫の湯ホテル創立、藤七温泉開発など仕事一筋に夢をもち、精魂を かたむけたが、二十五年七月六日、ふとしたことから五十五歳の生涯を閉じている。

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