鹿角の近代人物伝 |
△町井正路 明治十一年(1878)〜昭和二十一年(1946) 町井勝太郎 は嘉永三年十二月二十九日、花輪御境古人市太郎こと佐平治の長男として 花輪に生まれた。町井家は古くから御境古人の家柄で、秋田藩境の見廻りなどを役目と していた。 勝太郎は、少年の頃から頭脳明晰をもって知られ、長じて盛岡の作人館において洋学 を修め、英語、化学、数学、測量術など最新の知識を修得した。明治五年学制が発布さ れ、小学校が次々に設立されると、要請されて大里学校で教鞭をとっている。間もなく 花輪学校に転じているが、教え子には大里文五郎、石田八弥、川村才太郎など、後に鹿角 を代表する人達がいた。八年には工部省の測量設計技術者として登用され、大葛金山、 十和田銀山に勤務し、鉱山の開発に貢献している。十和田では役宅が和井内貞行の隣り で、貞行とは肝胆相照らす仲であったという。 十八年に鉄道局に転勤となり、信越線の測量設計をなしとげている。また、室蘭線を はじめ、全国の鉄道測量に関与し、鉄道の基礎整備に大いに貢献している。 鹿角市先人顕彰館の一隅に、ゲーテ作「ファウスト」の訳本が展示されている。高橋 克三所蔵のこの本には、数ページにわたって文豪夏目漱石の書き込みがある。 この本の翻訳者が 町井正路 (まさみち)である。これは、明治四十五年東京堂から出版したも ので、同三十年の大野酒竹訳、三十七年の高橋五郎訳につぐ、日本第三の訳業で、文化 的にも貴重な文献といえよう。翻訳を完了すると、さっそく何かと指導援助を受け、尊 敬してやまなかった漱石に献本したのであった。 正路は明治十一年一月二十日、勝太郎の長男として谷地田町に生まれ、父に従って北 海道に渡り、札幌農学校に学び、肥料会社に勤務した。中学時代から語学が堪能で、多く の文芸作品の翻訳をなしとげている。また、勤務先である肥料会社では、硫安リュウアンの製 造法で新しい発明をしている。 勝太郎は昭和十一年、正路は昭和二十一年に相次いでこの世を去った。 子孫に町井琢也(所沢住)、関玲子(川原町住)がいる。 |