鹿角の近代人物伝
 
…… 大日堂舞楽を復興した名村長 ……
△安倍悦人   安政五年(1858)〜昭和十六年(1941)
 安倍悦人は、由緒ある大日霊貴神社の四十六代宮司安倍嘉津馬カヅマの長子として、安政 五年十一月十八日八幡平小豆沢に生まれた。幼少の頃より俊才の誉れ高く、また、気骨 ある少年として世人の注目を浴びていた。長じて当時の宮麓村戸長等を勤め、明治二十 二年町村制が施行されるや、宮川村収入役となり、助役を経て、二十六年には宮川村村 長に推された。そしてすぐれた行政手腕で実績をあげ、各町村の注目の的となっている。
 
 これに先だつ同十七年、鹿角郡長小田島由義は、就任するや郡の発展興隆は、交通網の 整備にありとし、花輪から田山に至る道路を計画した。特に玉内から大里に至る山路を 廃し、大里まで直線道路を通すという構想は、全く新しいものであった。村人の大部分 は郡内一といわれた大里の美田を惜しみ反対した。
 当時戸長であった悦人は、この構想に賛成し、積極的に村人を説得して、大里田面タモテ を南北に貫通する二キロ余の通称「長道ナガミチ」の完成に努力した。この道路は、湯瀬・ 田山へ進み、盛岡まで馬車が通れる直線道路として、鹿角街道の基幹となった。
 
 交通網の整備と共に、花輪〜盛岡間の物資や郵便物の量が飛躍的に増大し、郵便物取 り継ぎ所の設置の声がおこった。悦人はその誘致に奔走し、宮川取り継ぎ所の設置に成 功している(現八幡平郵便局)。
 
 また、悦人は村長就任後、長い間途絶えていた大日堂舞楽の復興を提唱した。幕末争 乱と明治維新の大変革、明治二年の大凶作等のため、舞楽は消滅寸前になっていたので ある。悦人は大里・小豆沢・長嶺・谷内の古老を集め、散逸していた古文書を収集し、同二 十五年、古式通りの舞楽を復興した。悦人の大日堂神官としてばかりでなく、郷土の文 化財に寄せる先見と情熱によって成った一大事業である。もし、この期を逸したら復興 は不可能だったに違いない。この大日堂舞楽は昭和五十一年、国の(重要)無形民俗文 化財に指定されている。
 
 悦人は同十六年十二月二十日、八十三歳の天寿を完うして病没した。大日堂舞楽が続 くかぎり、悦人の功績は永遠に輝くことと思う。

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