鹿角の近代人物伝
 
…… 天才数学者 ……
△立山林平   明治二十一年(1888)〜大正七年(1918)
 東大在学中に、アメリカのダビッドモルレー数学賞を受賞し、将来日本を担う新進数 学者として注目されていたのが、立山林平リンペイである。
 林平は明治二十一年十二月二十八日、毛馬内の素封家立山周助の二男として下小路に 生まれ、少年時代から神童と言われるほどの俊才であった。
 
 毛馬内小学校を卒業後、大館中学校から仙台の第二高等学校を経て東京大学に進んで いるが、どの学校でも首席を通している。中学時代に、スミスの大代数を独習でマスタ ーし、その天才ぶりは多くの人の知るところであった。
 大正三年東京大学を卒業するや、名古屋の第八高等学校の講師に招かれ、翌四年十一 月熊本の第五高等学校の教授となった。
 
 立山家では長男が早世し、林平が生まれた年に姉サキに養嗣子(弟四郎)を迎えてい たので、林平は才能を生かし、学者として身を立てることになったのである。
 
 林平はまた、スポーツや芸能でも優れた面をもっていた。中学時代はテニスの名選手 で、弘前中学とのダブルスの試合で、強豪六組を連破するという記録をつくっている。 高等学校時代は柔道をやり、大学では琴と尺八に熱中し、私費で琴の師範を毛馬内に招 いた程である。また中学時代から母校毛馬内小学校の同窓会幹事を十余年もつとめ、し かも余興係長として後輩の指導にあたった。さらに少年のころから盆踊りを愛し、友人 等十数名を集め、思い思いに扮装をこらして踊る姿は、毛馬内盆踊りの名物であった。
 
 林平は人との交わりも大切にし、友人が訪れるといつまでも歓談し、「林平君はいつ 勉強しているのだろう」と不思議がられたということである。
 しかし、将来日本の数学界を代表するであろうと嘱望されていた林平であったが、同 七年春から病にかかり、帰郷して小坂病院に入院、同年八月七日多くの人々の哀惜のう ちに、三十一歳の若さで病没した。ひとり娘の隆ユタカは幼かったが、成人して秋大教授石 田白樹(書家)の夫人となり、歌人、女流書家として活躍されている。

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