鹿角の近代人物伝 |
鹿角出身の著名人の中で、実業家としてまず指を屈しなければならないのが、佐藤忠 弥である。忠弥は裸一貫から身をおこし、東京の深川と高林で工員二千余名を擁する大 鉄工場を経営した人である。 佐藤家は、柴内から盛岡を経て、不老倉、尾去沢と居を移した。忠弥は、三代長治の 長男として明治三十年一月、元山で呱々の声をあげた。祖父久太郎は出色の鉱山技術者 で、藩主から御紋付の裃を頂戴している。父長治も優秀な坑人であったが、忠弥が七歳 の時早逝してしまった。 一家の柱を失った佐藤家では、不幸のどん底につき落とされ、忠弥は高等科半ばにし て、坑内で働かなければならなかった。友人の通学する姿を見て、翻然として志を立て 、十五歳の時北海道にわたり、小樽などの工場で鍛冶、製罐の技術を身につけた、また 、大正六年弘前五十二聯隊に入隊している。 十一年、小規模ながら独立の工場を建て、勇次、省三、喜代見の弟を呼んだ。しかし 、成功のめどがついた矢先、翌年の関東大震災にあい、工場は一物も残さず全焼してし まった。 しかし忠弥は、これに屈せず工場を再建し、昭和十四年には株式会社佐藤鉄工場とし て、業界の注目を浴びるまでに発展した。大戦が勃発すると鉄鋼業界は繁忙を極め、か つての聯隊長二子石中将の斡旋で、軍師弟の軍需工場となった。やがて高林に分工場を 増設、飛行機の部品製造にあたり、本工場千二百名、高林工場八百余名の大工場となっ た。ついで九州旭電化の次長を務めていた伯父清太郎を専務に迎え、業界の重鎮として 発展を続けた。しかし敗戦により工場は閉鎖され、進駐軍に接収されている。 忠弥は誠心誠意の人で、社会事業にも意を用い、本工場青年学校に無月謝の幼稚園を 開設し、また尾去沢蟹沢に土地を求め、元山山神社を移したりしている。そのほか、養 老院も計画していたが、昭和四十年九月病没した。享年六十七歳であった。 |