鹿角の近代人物伝 |
明治二十七年の日清戦争開戦前後から、清国情勢について常に正しい情報を送り、日 本の対清政策決定に大きく寄与したといわれる、有能な軍事探偵がいた。それは、毛馬 内出身の 石川伍一である。 伍一は慶応二年五月、藩庁祐筆ユウヒツの石川儀平の長男として毛馬内に生まれ、厳格な 家庭教育を受けて成長した。明治七年、創立間もない毛馬内小学校に入学したが、間も なく盛岡の仁王小学校に転校し、少年期を下宿で過ごした。 十一年、十三歳で同校を卒業し、歩いて上京、質実剛健で鳴る攻玉社コウギョクシャに入学 し、かたわら島田篁村コウソンの塾で漢学を学んだ。また十八歳の時、興亜校コウアコウで清語を 修めている。伍一は、清国貿易の重要性と風雲急な東アジアの形勢を察し、十九歳で上 海シャンハイに渡った。 上海では、海軍特務機関の曽根大尉からアジアの情勢と実用的な清国語を学んだ。つ いで楽前堂ラクゼンドウ荒尾精の下で上海、漢口を中心に、天津、北京はもちろんのこと、 四川省の奥地まで入り込んだ。そして軍事関係はもとより、地勢や人情風俗までくまな く探索し、精密な地図や情報を陸軍当局へ提出した。これが参謀本部の清国兵要地誌の 基本資料となった。その後薬売りに変装して蒙古から洛陽、長安まで足を伸ばし、その 行程は四千キロに及んでいる。二十六年日清開戦直前には、主戦場と予想される金州半島 から大孤山をはじめ、朝鮮沿岸の海の深浅まで調査した。 二十七年七月、日清開戦となり、小村大使らが引き上げた後も、伍一はひそかに船を おり、天津城内に潜伏、軍事機密の収集に当たった。長い弁髪、巧みな清語で、誰一人 日本人と気づく者がなかったが、ふとした習慣の相違で捕らえられてしまった。そして 同年九月二十日、城外西門において銃殺刑に処せられた。三発の銃弾が口胸腹を貫いた 時、従容として瞑目したという。伍一二十九歳であった。 伍一は単なる軍事探偵ではなく、当時有数の中国通であり、「清国文明進歩論」など の著書を残している。 「贈従五位石川伍一君」 「天津に於ける石川伍一先生五十年祭」 |