鹿角の近代人物伝
 
…… 十和田湖開拓の先覚 ……
栗山新兵衛    文政七年(1824)〜明治三十三年(1900)
 十和田湖開発における栗山新兵衛の業績は、余りにも有名な和井内貞行の陰にかくれ 、その偉業を偲ぶ人も少ないのが現状である。
 新兵衛は文政七年三月十八日、栗山九八の長男として花輪大町に生まれた。栗山家は 代々秋田屋の屋号で荒物雑貨商を営み、九八の代には御給人の列に加えられ、弘化四年 藩庁から店預りタナアズカリの銭札ゼニサツの発行を許され、その通用範囲は遠く野辺地方面に も及んだ。
 
 新兵衛は、烈々たる気迫を内に秘めながらも、温厚篤実で孝心の厚い少年だった。長 じて山口流剣法を関平太に、砲術を櫻井忠大夫に学んだ。さらに長沼流兵法を学ぶため、 毛馬内泉沢恭助の家塾に入門し、三里の道を遠しとせず、一日も休むことがなかった。 安政二年二月、三十二歳で極意皆伝を許され、兵法教授に当たった。これは花輪におけ る兵法教授の初めである。慶応四年八月戊辰戦争がぼっ発するや、推されて花輪御給人 隊一番手総締役となり、本隊の先鋒として力戦苦闘をしている。
 
 敗戦後、旧藩士はすべて帰農することになった。新兵衛は感ずる所あって、十和田湖 畔の神田川沿いに居を定め、狐狸野猿の棲む大密林に開拓の鍬を下ろした。
 新兵衛はすでに安政元年に十和田開拓に着目しており、兵法学者の立場から藩境に横 たわるこの地を重視し、藩に屯田兵設置の願書を提出している。これは防衛上の必要ば かりでなく、肥よくな原野は千石の高となり、藩士の二三男対策にもなるという考えで あった。慶応二年、開発援助の御沙汰があり、その準備中に戊辰戦争となったのである 。
 
 明治八年十和田銀山が再開されると、新兵衛は帆船を建造して、鉱山に野菜や物資を 輸送したり、養魚、養蚕を手がけたりしている。和井内貞行より十年も前のことである 。二十六年花輪の留守宅を守っていた妻と死別し、体力の衰えを感じて花輪に戻り、三 十三年一月十六日、七十七歳の波瀾万丈の生涯を閉じた。
 昭和四十四年、一族が相はかって「十和田湖開発之碑」を建立し、十月(秋田)県内 外より多数の参集を得て、盛大な除幕式が挙行されている。

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