鹿角の近代人物伝
 
…… 民俗学の大家 ……
△瀬川清子   明治二十八年(1895)〜昭和五十九年(1984)
 瀬川清子は、女性民俗学者として多くの業績を残し、「婚姻覚書」「きもの」などの 著作がある。清子は、明治二十八年十月三日、岩船源太郎・スケの長女として毛馬内に生 まれ、初めはキヨといった。母スケは産後の肥立が悪く、翌年二月、生後五カ月のキヨ を残して亡くなった。祖母ヒサ(内藤委仲次女)はみどりごを懐に乳をもらいに歩いた 。
 
 キヨが二歳の時、源太郎は泉沢熊之スケの娘イマを後妻に迎えた。イマは内藤湖南の いとこに当たる。よく出来た人で、里子にだされ、ひどいひびわれを作っていたキヨを 引き取り、実子同様に愛育した。四歳のころから、同居の叔母に学問を仕込まれたが、 岩船家も母方木村家も頭脳明晰の家系だったためか、よく学び、出入りの若者たちは、 誰一人かなう者がなかったという。
 
 同四十三年毛馬内小学校を卒業、翌三月準教員試験に合格し、母校の準訓導となった 。二十一歳の時には、小学校正教員の全科に合格している。大正六年秋田師範卒業と同 時に、同校に赴任して来た大湯の瀬川三郎と結ばれ、名前も清子と改めた。平元小学校 教員を経て、十一年姑かつを伴い上京し、四月三十日東洋大学東洋文化科に入学した。 夫三郎も同大学に入学しており、その間の生活費は、家庭教師の収入でしのいだといわ れる。卒業後、川村女学院、市立一中で教鞭をとった。
 
 このころから柳田国男に師事し、民俗学の研究採集に没頭した。その後七十九歳まで 大妻女子大の教授を勤めている。清子は八十四歳の高齢まで、日本全国はもちろんのこ と、モンゴル、ネパール、ソ連、ヨーロッパ、太平洋諸島等々、世界中に調査の足跡を 残している。清子が民俗学の発展に尽くした功績は余りにも大きく、その論文は数百点 に及んでいる。
 
 昭和四十四年夫三郎と死別、意志の二百万円を大湯小に贈り、瀬川文庫が創設されて いる。五十五年アメリカエイボン社の女性教育賞を受賞し、翌五十六年民俗学者最高の 栄誉、柳田賞を受賞した。そして五十九年二月二十日愛弟子吉田志津宅で、その生涯を 終えた。
「鹿角の民俗考」

[次へ進む]  [バック]  [前画面へ戻る]