鹿角の近代人物伝 |
明治初期、一代にして秋田県内第一の醤油醸造高を誇る浅利商店の基礎を築いたのが 、浅利佐助である。 佐助は弘化元年十月五日、花輪新町に生まれ、幼名を重次郎といった。少年のころ、 家業の五十集屋イサバヤ(魚屋)手伝いの傍ら、袋町川村寛平の私塾に学んだ。明治五年二 十九歳の時、新しい世の中では必ず一般の家庭でも醤油を使用するに違いないと、多く の資本を投じて醤油味噌の醸造に踏みきった。当初は好調に発展したが、十年の西南戦 争を契機に、事情は一変した。 政府はインフレ対策として、既に限界に達している地租をさけて、財源を間接税に求 め、酒、タバコの大増税と、新たに醤油菓子税を設けた。米価は四割余も下落し、諸物価は 沈静したが、一方では都市も農村も未曽有の布教に見舞われた。浅利商店でも今まで順 調に伸びてきた売上げが、一転してどん底に落ちた。借財の山をかかえ、万策尽きた佐 助は、銚子の湊で死を考えたが、大日様のお告げを得、再起を期して花輪に戻った。好 きな酒を断ち、「生命の限り働きます。足腰のたつうちは参詣します。どうか私を御守 りください」と大日様に祈願して、生涯を終えるまでこの二つの誓いを守り通したとい われている。 そして朝早くから大八車を引き、天秤をかついで、村々に醤油を売り歩いた。小田島 由義郡長がその奮闘を激励したのも、この時の事である。そのうち、売上げも伸びて 、剛毅で進取の気性の佐助は、次々と事業を拡張した。浅利普請といわれる土蔵の改築 の時は、午前二時から五時までとし、決して近隣に迷惑をかけなかったという。 生涯の誓いである成田山参詣の欠かさず、報恩のため建てた大護摩回塔は、今も大鰐 大日堂、成田山、山形善宝寺に残っている。五代目佐助こと久吾を、山形阿部太郎左衛 門家から迎えた時も、成田山参詣の車中で話がきまったということである。 大正九年七月二十八日、従容として苦闘七十七年の生涯を閉じた。徳養院福寿栄禅居 士は、そのおくり名である。 |