鹿角の近代人物伝
 
…… 維新の動乱を生き抜いた ……
△阿部甚正   嘉永元年(1848)〜昭和三年(1928)
 目時隆之進に従って東北遊撃軍に加わり、維新の戦乱を外から体験した人に阿部甚七 がいる。
 甚七は嘉永元年、甚五平次男として八幡平長嶺に生まれた。阿部家は目時家八十余石 の肝入りをつとめ、安政二年(1855)苗字帯刀を許された旧家である。長子善八は夭逝 し、甚七が家督をつぎ、父甚五平を助け村治に当たった。
 維新の風雲がようやく急を告げる元治元年(1864)、たまたま知行所を訪れた目時隆 之進の若党となり、十七歳で盛岡へ出府した。
 隆之進は慶応二年(1866)、四十四歳で参政に昇進した勤王の俊才であるが、若い甚 七に目をかけ、ひまがあれば学問や剣技を指導した。
 
 同四年(1868)、盛岡藩は京都守護を命ぜられ、甚七は副隊長隆之進のお供をして京 都に出張した。隆之進は隊長楢山佐渡を説得したが、奥羽越列同盟加担を阻止できなか った。隆之進は、南部の社稷を保つには勤王の道しかないと、ひそかに僕甚七を長州陣 屋に遣わし、藩侯父子に異志のないことを告げさせた。隆之進主従は脱走して長州陣屋 に身を投じ、甚七は若き日の品川弥二郎と知り合った。友情のしるしにもらった松の実 は、今では大木となり、長嶺の生家にそびえている。
 
 隆之進主従は、戊辰の終戦を秋田で迎えた。隆之進の昼夜をわかたぬ奔走のかいもな く、南部氏は白石十三万石に転封となり、隆之進は国を売る者との非難を浴び、主従四 人は盛岡へ護送された。隆之進は黒沢尻に至ると進退きわまり、本陣鍵屋の庭前で割腹 自刃した。死色の迫る主君より遺品と後事を託された甚七は、盛岡へ直行することもな らず、秋田まわりで長嶺へ戻った。甚七は名を甚正と改め、主君正明の正をとり、甚正 正光と名乗った。
 
 明治二十二年町村制施行とともに初代宮川村村長に推され名村長とうたわれ、昭和三年 八十一歳で病没した。甚正は、隆之進の遺族にしばしば金品を贈り、負託にこたえてい る。
「目時隆之進」
 
※天保十年(1839)没の 二所関軍右エ門 は、大叔父である。

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