鹿角の近代人物伝
 
…… 苦学の末、関東学院大学学長となった ……
△坂田祐   明治十一年(1878)〜昭和四十四年(1969)
 坂田祐は明治十一年二月、会津藩士中村富蔵の次男として大湯に生まれた。
 同元年九月、戊辰戦争で一敗地にまみれた会津藩は、二十三万石の雄藩から斗南三万 石に転封となった。不毛の原野斗南の生活は悲惨をきわめ、富蔵は藩命により新しい活 路を求めて、大湯に移って来た。
 
 祐は窮乏の中で、大湯小学校四年を卒業し、父と不老倉鉱山で働いたが、向学の 念やみがたくその年の秋、毛馬内小学校高等科二年に編入した。会津藩士の娘の嫁ぎ先 石川家の雑用をつとめながらの勉強であったが、三月には首席となり、生徒を代表して 修了証を授与されることになった。貧しい祐は、袴がなくて困ったということである。 毛馬内の寄食先も豊かでなく、一年足らずで不老倉に戻った。夕食の米がなく、ただ 一本の帯を質入れする母を見て、上京して身を立てる決意をした。
 
 働きながら数十日もかかって喜多方(現在の福島県喜多方市)の祖父を訪ね、旅費一 円五十銭を恵まれた。祖父日向内記ヒナタナイキは、白虎隊の中隊長をつとめた人である。
 米国へ密航勉学の計画は不成功に終わり、しばらく毛馬内の学友樋口定三の下宿に泊 めてもらい、学僕の口をさがしたが職はなかった。言語に絶する辛苦の末、かって不老 倉で世話になった坂田氏を頼って足尾銅山に就職した。間もなく陸軍教導団に応募し、 首席で卒業後選抜されて騎兵学校に進み、恩賜の銀時計で卒業した。
 
 明治三十五年士官学校馬術教官となり、日露戦争には弘前八師団から出征し、戦功に より金鵄勲章を賜った。同三十九年坂田氏の娘チヱと結婚し坂田姓となったが、学校教 育の宿志を捨てがたく、金鵄勲章の賜金をもって中学校四年に編入、一高を経て東京大 学に進み、卒業したのは三十八歳の時である。
 
 昭和二十四年、関東学院大学学長に推された。この年藍綬褒章を賜り、勲三等に叙せ られている。米国レットランド大学でも人文学博士の学位を賜り功に報いている。
 同四十四年十二月、横浜の自宅において波乱万丈の生涯を閉じた。享年九十一歳であ る。

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