鹿角の近代人物伝
 
…… 鉱山の発展に貢献した ……
△石田八弥   文久三年(1863)〜大正十四年(1925)
 古来から全国有数の鉱山地である鹿角は、日本の鉱山発展に多くの人材を出している が、石田八弥もその一人である。
 八弥は、文久三年八月、佐幸サコウ事奈良又助の四男として花輪村今泉(現在の花輪川原 町)に生まれた。幼少のころは川村左学、町井勝太郎に学び、明治七年花輪学校に入学 してからも、成績はいつも抜群であった。
 
 当時少年達は、尾去沢又新ユウシン学校の生徒と、問いかけといって勉強を競いあったが 、内藤虎次郎(湖南)のいる尾去沢に遅れを取ることが多かった。花輪勢は旗色が悪く なると、八弥様を連れて来るぞというほど、二人は両村を代表する俊才であった。
 
 明治九年創立間もない秋田中学に入学したが、後、民生党及び進歩党総裁となった町 田忠治と同級で、互いに首席を争った仲である。時の県令石田英吉は男子に恵まれなか ったので、養子の選定方を校長に依頼した。校長は即座にこの二人を推薦している。
 ある日校長と県令は、校長室から生徒の登校を見ていた。弊衣ヘイイ破帽ハボウ高足駄の忠 治と対照的に八弥は服装も登校の態度も立派であった。こうして八弥は石田男爵家の養 子に迎えられた。
 八弥は、既に田村専之助の娘婦美と云う許嫁イイナズケがあり、あまり気が進まなかった ということである。
 
 明治二十年、東大採鉱冶金科を卒業し、ドイツフライブルク鉱山大学に留学した。帰 朝後硫化鉄鉱から硫酸をとる方法を発見し、化学肥料生産を容易にした。後、官を辞し て三菱に入社し、電気分銅法、金銀の電気分解法を開発し、国益増進に寄与するところ 大なるものがあった。なお副産物のタンパンは、農薬ボルドウ液の原料であり、農業を 主産業とする、当鹿角市にとっても特記すべきことでなかろうか。
 明治三十四年養父の死去により男爵を襲爵シュウシャクし、大正四年には工学博士の学位を 贈られている。同十四年六十三歳で病没、特旨をもって従三位に叙せられたが、その生 涯は日本の鉱業史上永遠に輝くものと思う。

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