「桑の實」
 
長き文書かんとは思へ如何にせん
  長き暇の無きが悲しき

文なきは我が子健やに居るなれと
  思し召せやたらちねの君

たらちねの病める母君今日もかも
  みいくさへ征きし吾子思ひゐむ

風の日も雨降る日にも子を思ふ
  母を思へば涙ぐましも

冬過ぎて春夾るらし軒の端の
  雪走りして光あふれたり

待ち待ちて待ちのきはみゆ夾し春や
  青空を仰ぎ母を思へる

待ちわびし春の光のうらうらと
  母君のみ躰も安けくあるらし

佐保姫の春待ちわぶはひたすらに
  吾が為ならず吾が母のため

佐保姫の春の便りの羨しさに
  遠山脈を幾久にみつ

たらちねの母君故に待ち待ちて
  待ちわびし春に今遭えるかも

母君の御躰癒え給ふ日は夾ずや
  春とし聞けば待たるるものを

癒ゆる日の一日も早くあれかしと
  明けゆく春の空に祷りつつ

母おもふ現身の祷り拙きや
  亦も舞ひ夾ぬうれたき雪は

天地のたくみの業のよきにつけ
  悪しきにつけて母想ふわれは

降る雪の激しさをみつ吾子想ふ
  ふるさとの母のおもほゆるかな

病める躰を吾子想ふ想ひに生きむとふ
  ふるさとの母よ幸くましませ

そこここと黒土は出ぬ青草の
  萌え出る春になりにけるかも

母君の御躰癒え給ふ春は来ぬ
  心たのしく黒土を踏むも

生も死も尚忘れべき吾にして
  此の頃多く母の夢みる

今日もまたたらちねの母の畑に出で
  鍬振ふ姿夢に見えつも

畑に立ち吾子安かれと祷りゐむ
  母君のすがた夜々夢に入る

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