「桑の實」
 
酒欲しさ窮りぬればすべをなみ
  生唾を呑む此の生唾を

祖々の祖の御代よりうけつぎし
  酒呑む業ぞわれは尊まん

吾が父も曾祖父も欣び呑みし酒
  此の酒にしてなんの毒あらん

百薬の長とし言ふぞ此の酒の
  乏しきを酌む涙たらしつ

百八十のくすり多けどよしえやし
  此の酒に如く薬あらめや

現身の悲しきは言はず祖々の代ゆ
  継ぎ来し業ぞ少し呑ましめ

乏しとも恨みは言はずかしこみて
  かなしみ酌まんそのうま酒を

かくまでは戀ほしと言ふにいかなれば
  などその酒を吾に与へず

乏しらの酒をすすらひ夕べ夕べ
  流す涙を君知らずして

口にしてうすきこの酒乏しくて
  などかくまでに吾を泣かしむ

現身の歎きは言はじせめてただ
  この酒ばかり少し呑ましめ

累代の関家絶ゆとう淋しさの
  そのたまゆらを酒呑むわれは

淋しさのそのいやはてのたまゆらを
  酒なしにして如何にか吾がせん

如何なれば酌むほどに勝る侘しさや
  酌まばまして侘しとおもふに

酒盃(さかずき)に灯びのかげほの映えて
  しみらに淋しこのたまゆらは

かなしみて酒すすらへば灯もゆらぐ
  此宵ををきて君はゐまさず

酒呑まで幾久か經ぬ好むもの
  酒とや言はん菓子とは言わん

酒戀ひて狂ひてしものをあはれ吾
  酒無しにして幾日か過せし

[次へ進んで下さい]