「一閑」こと関家
 
…… 行政改革の推進と文化の興隆に活躍 ……
△関久兵衛(一閑)   文政九年(1826)〜明治四十年(1907)
 秋田県は明治十年九月一日、区務改正を行い、正・副戸長、中学区取締、伍長総代などを 廃止し、新たな区職制と区町村総代人職制を定めた。その骨子は、大小区画をそのままとしながら、 小区扱所を廃して、小区内に各町村の組合を定め、組合町村事務所を置いた。
 この時期の辞令に、花輪村の関久兵衛に対して、同十年九月一日付けで「第二大区八小区戸長 申付、四等月給支給候事。但宮麓村担当申付候事。秋田県」とある。当時戸長は官選で、秋田県が 発令していたのである。四等月給は、金三円五十銭であった。
 同十七年七月町村組合が再編成され、花輪村組合戸長役場として関久兵衛あてに、花輪村会 議員当撰状があった。
 一方、第一回県会議員選挙が、鹿角郡では明治十二年二月二十八日に行われ、花輪村関久兵衛、 毛馬内村勝又平太郎(嘉永五年生)が当選した。
 
 明治の後半になると、マルメロの栽培は、鹿角郡がその原産地と思われたほど広く分布し、 缶詰製造により特産物としての声価を得ていた。マルメロ栽培は労力を要すること少なく、 かつ販路も定まっていたので、農家の有利な副業としての期待が大きかった。
 同二十年代、花輪の木村徳次郎が砂糖煮を試み、次いで同町に関久兵衛が缶詰にして販売したと 伝えられている。
 
 明治になると、鹿角でも俳句が盛んになり、関久兵衛は「一閑」と号して、活躍した。 即ちその功績を顕彰して、大正十五年九月門人如竹関善次郎によって、 長年寺境内に一閑関久兵衛の句碑が建てられた。
 
 空低し何處まで続く花の奥
 
 また、鹿角の謡曲は、旧盛岡藩時代から宝生流が盛んであったこともあり、関久兵衛等は宝生会を 作って、その興隆にあたった。
参考:鹿角市史
一閑句碑
句碑のある「長年寺」

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