西田天香と田の沢鉱山 |
△西田天香(にしだ てんこう)とは 明治5年、滋賀県長浜市の紙問屋に生まれた。本名は市太郎。小学校卒業後、18歳のと き滋賀県知事大越亨に面談、その二宮尊徳の報徳思想に共感し、2年後兵役を免れるため 北海道開拓民として移住した。開墾事業の監督となったが、資本家と小作人の間の紛争 調停に苦しみ、のち数年間懐疑と求道の放浪生活を続けた。 同38年(1905)長浜愛染堂で断食中、乳児の泣声に無心の境を悟り、同年京都鹿ヶ谷 (ししがたに)に「一燈園」を開設、懺悔生活を始め、「おひかり」による内面的救済を 求め、無所有の共同生活をめざした。一燈園はのち京都山科に移り、本部光泉林,諸学 校施設などをもち、多数世帯の大家族的生活が実践されている。昭和43年、96歳で逝去。 <略歴> 明治5年(1872) 滋賀県長浜市の紙問屋に生まれた。 同22年(1889、18歳)二宮尊徳の報徳思想に共感。 同24年(1891、20歳)北海道開拓民として移住。開墾事業の監督となったが、利害の対 立に苦悩した。 同30年(1897、26歳)〜数年間「人間としての争いのない生き方」を求め、懐疑と求道 の放浪生活。 同38年(1905、33歳)三日三晩断食の籠坐の後、"赤ん坊の泣き声"に生命の原点を見い 出し大霊覚した。無一物・路頭を原点としての懺悔・下坐の奉仕、許されて生きる「托 鉢」を始めた。 大正2年(1913、41歳)京都東郊の鹿ヶ谷に「一燈園」を建設。 同8年(1919、47歳)"六万行願"(便所掃除の祈り)を全国各地で開始。 同10年(1921、49歳)『懺悔の生活』の出版。多くの人々が集まった。 昭和2年(1927、55歳)中国、朝鮮、ハワイ、北アメリカなどへ布教。徹底した下坐の 路頭托鉢で、「日本のガンジー」と称された。 同22年(1947、75歳)第1回参議院議員選挙で全国区に当選、緑風会の結成に参加。 同43年(1968、96歳)96歳をもって帰光(逝去)。 <後世に与えた影響> 西田天香氏の教えを実践する場である一燈園(修養道場)は、今も全国から人が集ま り、路頭を基本としての俗諦成就の生活が行われている。その内部には出版や、「すわ らじ劇園」、幼稚園から大学までの教育機関がある。 氏の生命主義は河上肇、谷口雅春、倉田百三、和辻哲郎らに影響を与えた。 <特筆すべき生活> * 路頭生活・・・・定まった住居を持たず捨て身の生活 * 懺悔の生活・・・・無欲無心の奉仕と托鉢行願の生活 * 無一物の生活・・・・無所有の共同生活 |