西田天香と田の沢鉱山 |
参考:鹿角市発行「鹿角市史」ほか
△田の沢鉱山田の沢鉱山は明治21年10月、長井田村民有地字田ノ沢58番の内に、4,000坪の銀鉱借 区開坑願が出され、翌22年3月許可されたことに始まる。その後33年にかけて、用水鉱 毒、重複出願、鉱業権譲渡などの問題が起こった。 それ以後の鉱山の状況はほとんど伝えられていない。 大正二年現在の郡内鉱区調をみると、曙村(鹿角市大字八幡平の内)の採掘権者とし て西田市太郎の名がある。西田市太郎は天香と号し、明治38年京都一燈園の創始者とし て知られる。 大正11年10月26日付け秋田魁新報の記事に、西田天香所有の曙金山の採掘権に対して、 東京府大井瑾応(きんおう)が数千円の債権を資本家大倉、杉本両氏より譲り受けて差 し押さえたが、天香側は金山の強制執行を無効であると主張した、との内容を載せてい る。 また昭和8年1月の記事では、曙村役場より山中に12キロ、西田天香の経営したことの ある田の沢鉱山は、目下北秋田郡加賀谷源吉によって稼行、坑夫40名が従事し最新式の ボーリングで探鉱の結果、明春100トンの銅鉱搬出が確実となり、花輪線小豆沢駅(現 八幡平駅)に至る搬出道路改修に着手した。鉱石は発盛(はっせい)製錬所(八森)へ 売鉱されることに決定している、と報じている。 しかしそれから数カ月後の地元紙鹿角時報(同年5月1日付け)は、加賀谷源吉は昨年 10月田の沢鉱山の隣接区に曙鉱山を稼行、長屋を建築し、道路を開き、30余人の鉱夫を もって試掘採鉱を行っていたが、今回急に中止し、4月22、23日頃引揚を開始した、とし ており、複雑な事情の介在を思わせている。それは同山の権利をめぐる稼行主と投資者 間の訴訟事件の結果であった。 昭和13年度以来、田の沢鉱山は旭鉱業会社の手で復旧が図られ、一時坑道の改修と探 鉱により数カ所に良好な鉱床を確認したとの消息が伝えられている。 [地図上の位置→] 「作沢沼伝説」 |