136 法印と狐
 
                       参考:鹿角市発行「十和田の民俗」
 
 長い冬がやっと過ぎて、春の日が燦々と降り注ぐ温かいある日ことである。
 毛馬内の法印(神主)が、大湯の在ザイ(郊外の不便な地)の農家から頼まれて、出
かけていった。肩に法螺貝を懸け、衣装を包んだ風呂敷包みをを背負い、仁叟寺の坂を
登り、蟹沢に差し掛かった。蟹沢には大きな太い柳の木があって、芽は黄金色に吹き出
し、ボウと燃えているようである。そんな木の根元に、庚申塚コウシンヅカがあった。
 
 庚申塚の石の上に、温かい春の日射しを浴びて、気持ちよさそうに、こっくりこっく
り居眠りしている一匹の狐が居た。法印はそんな狐を見ていると、ムラムラといたずら
っ気が湧いてきた。小鳥が、
「やれやれ」
とばかりに鳴いている。『狐の野郎、朝間っから昼寝してけつがって』と思った。『眠
っている狐の耳元で、法螺貝を吹いて、動転ドデンさせてやれ』と考えたのである。動転
した狐の表情を想像し、笑い出したいのを我慢し、そっと近づいて行った。狐は気付か
ない。
 
 そっと法螺貝を肩からはずし、口に当てて息を腹一杯吸い込んだが、狐は目を醒まさ
ない。法印は力を入れて、いきなり、
「ぶぶー、ぶぶー」
と法螺貝を吹いた。狐はびっくりしたのなんのって、六尺もビョーンと飛び上がって、
どたりと落ちるや、藪の中に一目散に駆け込んでいった。法印はその無様が可笑しくて、
腹を抱えて笑った。
 
 法印は腰廻(地名)の坂を降って、農家に着いた。法印はほっぺたを膨らまし、法螺
貝を吹いた。法螺貝の音は野を渡り、山にこだました。この音だけで、爺様ジサマ婆様バサマ
達の目は輝き出し、そして三拝九拝を始める。うやうやしい祝詞、パサリパサリとさば
く御幣、爺様婆様達の頭が茣蓙ゴザにくっつく。……祈祷が一段落すると、待っていま
したとばかり酒が出る。法印は、手取り足取りの歓待振りに、ついつい酒を過ごしてし
まった。 
 
 未だ日の高いうちに帰ろうと、ふらふらする足を急がせてきた。腰廻の坂を登ってい
るうちに、段々辺りが暗くなってきた。遂に長い春の日も、たちまちとっぷり暮れ、鼻
を摘まれても分からない程の暗さになった。法印は、
「んにゃ、暗くなってしまったな、困ったな」
と、独り言を言った。
 よく見ると、真っ暗闇の中に、一つの光の点があった。チラチラと燃えている。どう
しようもなく、そこに一晩泊めて貰おうと考えて、近づいて行った。
 
「道に迷ったので、何とか一晩泊めて下さい」
と言って入っていった。すると品の良い、にこやかな顔のお婆さんが、
「ああ、いいよいいよ」
と言いながら、炉に柴をくべた。
「夜は冷えるからね、ずっと炉端に寄って下さい。今、ママ(飯)が出来るし、干菜汁
と漬物ばかりですが、ママを上がって下さい。一寸待って下さい」
と言った。
 
 そして、お婆さんは炉縁に寄り、鉄漿箱から鳥の羽を取り出し、炉の中の鉄漿壺に浸
けて、カネ(お歯黒)を付け始めた。
 間もなくしてお婆さんが、法印の方をじっと見て、
「法印殿よ、付いたかな」
と言った。
 法印は、びっくりして腰を抜かした。さっきのにこやかな顔とは、似ても似つかぬ怖
ろしい顔を向けたからである。口は耳の根元まで裂け、目は吊り上がってランランと光
り輝いていた。
 法印は、背筋がザワザワッとして身震いして立てない。婆は、法印の様を見つめなが
ら、口をニタリニタリしながら、またカネを付けて、
「法印殿よ、付いたか」
と怖ろしい顔を突き出し、詰め寄ってくる。
 法印はおっかなくて、ジシリッと後ずさりした。婆はまたカネを塗っては、
「法印殿よ、付いたか」
と詰め寄ってくる。法印はまた、ジシリッと後ずさりした。
 途端に、上がりガマチ(框カマチ)から『ドシン』と、土間にひっくり返ってしまった。
 
 この様子を田んぼで働いていた人達が見ていた。法印が大きな石の上で後ずさりし、
今にも落ちるのではないかと気が気ではなかった。『あっ、危ない、危ない』と声を上
げても届く距離でない。
 田んぼの人達が、
「あっ」
と叫んだ途端、ざぶんと川へ落ちてしまった。
 法印が土間だと思った処は、川だったのである。
 崖の上には狐が一匹居て、法印が無様に川へ落ちるのを見て、笑っていた。(八幡平)
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