101 三本杵と縞のさいふ(花輪・尾去沢)
 
                    参考:鹿角市発行「花輪・尾去沢の民俗」
 
 昔あるところに貧乏だけれど大変に正直で働き者の若い男が母親と二人で暮らしてお
りました。そして毎日やとわれ、あっちこちとかけまわって働いていたのですが、いつ
かは自分の家を持ち体の弱い母を少しでも楽にさせたいものと一生けんめいがんばって
いました。
 
 或日のこと、坂をずっと登った上の台地に安く売ってもよいという土地のあることを
ふと耳にしました。けれどそこは草ぼうぼうの原っぱで、夜になると三本杵キネ(一つの
臼に三人がそれぞれに杵を持ち米をついたり、粉をつくったりするものですが、三本の
杵をつかうので三本杵と言うのだそうです)の音がトントントン、トントントンとする
ので、
「あれは化け物のしわざだ、気味が悪い」
といって昼でも誰も近づかない場所だとのこと……。がっかりして家に帰り母親に話し
たら、
「それはお化けではなくて、お稲荷さんか何かの神様が拝まれたくて米をついているよ
うな音をさせているのだんべ」
という言葉にほっとして、早速もとめたいと思い役所へ行って願いしてみました。する
と、
「あの化け物やしきか、お化けのいる原っぱといううわさの場所で持ち主もいないから、
もしお前がそこを開墾するならばタダでやろう」
と言うのでした。
 
 お役所の許しをもらった若者は大よろこびで早速草を刈り小さなほったて小屋を建て
て、中にはまず神棚をつくりました。そして母とここで住むことになったのですが、そ
のせいか三本杵の音はピタリとやみました。又そこはかなり広い土地なので何を植えよ
うかと困っていたら母は、
「このような丈の高い草の育つ場所だから麻がいいべ」
と。その言葉どおりに一面に麻の種をまいたら、数か月で見事に大きく育ちました。そ
の当時、麻の皮は、そのままでもぞうりや下駄などのはきもののはなおとして無くては
ならないものだったのですが、糸につむいで織ると丈夫な織物が出来るので、どこの家
でもはたおりをしたもののようです。それでこの麻は、とぶように売れ、二、三年をた
ったら大分ゆとりが出来て母親においしい物を買って食べてもらえるようになったそう
です。
 
 そうしたある日の朝、いつものように早く起きて戸をあけようとしたら、入口のとこ
ろによれよれのきたない縞のさいふが落ちているのに気づき拾いました。勿論からっぽ
ですが、
『誰かが捨てた物かも知れないが、もし家に来たお客さまの忘れ物であっては……』
と思い塵をはらって神棚にあげようとしたら母が、
「そのさいふは、きっと神さまからのさずかり物にちがいない。さいふというものは空
にしておくと無くなってしまうものだし、古くなってもむやみに捨てるものではないよ、
一文(昔の一番安いお金)でも二文でもいいからお守り銭として入れてからお供えして
ごらん」
と、教えてくれました。若者は、
『なるほど』
と思い、十文入れて神棚にあげました。この様なことがあって何年か過ぎるうちに、畠
だけではなく田も少しつくったみたいと思うようになった時、丁度荒れ地の田を手ばな
したいという人があったのですが、今まで麻を売ったお金をかき集めましたがどうして
も足りないのであきらめていましたら、又母親に、
「あの神棚にお供えしてある縞のさいふを見てごらん」
と言われて、十文入れたことを思い出しましたが、それだけでは足りる筈はありません
けれど、すなおに神棚からさげようとしました。するとどうでしょうか、その財布はず
っしりと重いのです。不思議に思ってひらいて見たら、どうしたことでしょうか、いつ
の間にやら十文のお金が大判(昔の一番価の高いお金)小判にかわり一杯になっており
ました。
 
 これこそ神様のおかげと思い働いたら必ずお返しすることを固くちかい、その大判小
判で広い田んぼを何なく求めることが出来ました。こうしてこの若者はいつの間にか沢
山の人々を雇えるような長者さんになり、三本杵の音は毎日毎日高台から響いたことで
しょう。
 けれどもこの男は長者になっても、いばらずみんなと一緒に働き、母親を大切にして
孝養をつくしたので多くの人々にしたわれたということです。母が亡くなってからも神
仏を拝み親の教えどおりに縞の財布を大事に神棚にお供えをし、子どや孫……その後も
ずっと家の宝として伝えたということです。
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