61 菅江真澄の鹿角遊覧
 
                         参考:鹿角市発行「鹿角市史」
 
 菅江真澄は江戸時代の紀行家として著名であり、また民俗学の先駆者とも呼ぶべき人
である。本名は白井秀雄、宝暦四年(1745)三河国渥美郡生まれと推定されている。天
明元年(1781)以降漂泊の旅を送り、秋田を中心とする北日本の風物・文化・民俗を記
録した。文政十二年(1829)角館で死去し、秋田に葬られている。鹿角には前後三回に
わたって来訪し、その旅ごとに旅日記やスケッチを残した。
 
『けふのせはのの』
 真澄が鹿角を訪れた一回目天明五年(1785)、三十二歳の時で、この時の記録として
『けふのせはのの』をまとめている。この時は津軽から秋田領に入り、鹿角を経て盛岡
から仙台領へと旅している。
 入逢のかねの音する山かげも 島は夜明けの名に聞えぬる
 
『錦木ニシキギ』『十曲湖トワダノウミ』
 二回目の鹿角来訪は文化四年(1807)、五十四歳の夏で、能代・山本をめぐり、五月
の末に毛馬内に来て七八九月と滞在し、能代に戻った。
 男鹿なく柴の折戸も紅葉して そこととわれんあきのやまやま
 
『上津野の花』
 三回目に鹿角へ来たのは文政四年(1821)で、これは『筆能フデノしがらみ』の中の一
節『上津野カミツノの花』にまとめられている。真澄六十八歳の時であった。秋田領十二所
を出発、沢尻・土深井・おおながね・十文字から西道口に出て、花輪に着いた。六日に
は福士川近辺をめぐった。
 よしさはれみぬさとらまし人ことに こやとふかひもなにのみやしろ
 うくひすに来てもあはなてほとゝきす 汝かちゝはゝは老て鳴也
 時もいま咲や花輪の花かすみ 霞へたてて見ゆる一さと
 
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