6001猿賀サルガさま・田道将軍(錦木)
 
                    参考:鹿角市発行「陸中の国鹿角の伝説」
 
 昔、仁徳ニントク天皇(約千六百年前)と云う天皇の時代でした。
 その頃、鹿角に住んでいた人達は、蝦夷エゾと云われていて、天皇の命令を聞かない人
達が住んでいたのです。
 それで、仁徳天皇は都でも一番戦イクサの上手な、田道タミチ将軍と云う偉い大将をわざわ
ざ「蝦夷征伐セイバツに行って来い」と言って都から攻めて来らせたものでした。
 田道将軍は、米代川を遡サカノボって、古真木コマキの処の石野イシノと云う処に上陸して、鹿
角に攻めて来ました。
 その時、鹿角に居た蝦夷達は、丸館の近くの軍森イクサモリに集まって、田道将軍の兵隊を
迎えたのでした。
 
 田道将軍は石野から段々軍森に近付いて来たが、それで蝦夷の兵隊達は将軍の兵隊達
に負けられないと思って、寺坂テラザカの下の方の鹿角沢カヅノザワの処で待ち構えていて、
両方の兵隊の戦が始まりました。
 初めは、戦の上手な田道将軍の方が勝っていましたが、けれども、段々田道将軍の方
は人数が少なかったために、蝦夷の兵隊達に負けそうになりました。そのうちに、田道
将軍は蝦夷の射った毒矢に中アタって死んでしまいました。将軍は死ぬとき、
「俺は死んでも亡骸ナキガラは必ず大蛇になって、毒を吐ハいて蝦夷のことを亡ぼしてやる
」と言って死んで行きました。
 
 それから、田道将軍の亡骸を埋めた処に墓石を置いて神社を建てて、その神社を猿賀
さまと呼ぶようになったのです。
 ある時、悪戯イタズラな若者が猿賀さまの墓石を掘って見たら、本当に大蛇が出て、大蛇
に噛カまれた若者は死んだと云います。
 今でも、猿賀野とか、草木の人達は、
「しょうがんさまきた」
と言えば、怖ろしいものが来たことだとして、泣く子供や、弱虫の子供が居ると、
「しょうがんさまに連れて行かれる」
と言って脅オドかしています。
 
付言
 この猿賀野の辺りには、昔に戦争があった時代の地名がいっぱい残っています。軍森
イクサモリ、斤候坂モノミザカ、鉄砲平テッポウダイ、首塚クビヅカ、菩提野ボダイノ、蝦夷森エゾモリ、陣
ケ森ジンガモリ、門之木沢カドノキザワなどです。
 また、今の猿賀神社の境内にある忠魂碑チュウコンヒの立っている処は、昔は蝦夷の首塚だ
と云って、大きな森になっていました。
 この神社の境内にある庚申塚コウシンヅカには、見ざる、言わざる、聞かざるの三猿サンザル
を彫ったものがありますが、戦争に負けた田道将軍のことは、見ないで、言わないで、
聞かないようにするためだと云われています。
 将軍田道祠ホコラと刻まれた碑イシブミ、また、田道将軍戦没之地と云う碑も立っています。
[詳細探訪]
  
 
6001猿賀神社
                参考:鹿角市史編さん委員会発行「ふるさと散歩」
 
 日本書紀の仁徳天皇の条に、
「五十五年、蝦夷エミシ叛ソムきぬ。田道タミチを遣ツカワして撃たしめたまふ。則ち蝦夷の為に敗
られて、伊寺水戸イシノミナトに死ミマカりぬ。時に従者ツカイノモノ有りて、田道の手纏タマキを取得て
其の妻メに与ふ。乃ち手纏を抱きて縊死クビレシにたり。時人トキノヒト聞きて流涕カナシむ。是の
後に、蝦夷亦襲ひて人民オオミタカラを略カスむ。因りて田道の墓を掘る。則ち大なる也(虫扁
+也)オロチ有りて、目を発瞋イカラして墓より出でて乍(口扁+乍)クラふ。蝦夷悉コトゴトに也
(虫扁+也)オロチの毒アシキイキを被アア゙フりて多サワに死亡シニウせぬ。唯一二人免るることを得た
るのみ。故カれ時人の云へらく、田道は既に亡シにきと雖イウも、遂に讎アダを報ムクゆ。何ぞ
死人シニタルヒトの知サトリ無ならむやと」
とあり、明治の中頃水戸の史家は、伊寺水門とは石野のことで、将軍の墓を祀ったのが、
この猿賀神社であることを考証しました。
 
 申ケ野サルガノ草分けの旧家に、「猿賀権現は、昔上方カミガタから来た無双の勇将で、敵
の首をあまた埋めたのが蝦夷森である。時には大蛇に身を変えて戦ったが、川の辺りで
重傷を負い、門木沢の清水を飲んで没した。此処ココに葬った後、墓を暴アバく者があった
」と語り伝えられております。 
 因みに、青森県弘前近郊の名だる大社猿賀神社の伝には、「往古大洪水あり、ご神体
が鹿角から流れ着いてきた」として、鹿角猿賀社の正統とその古さを認めております。
 
関連リンク 「神社の碑文(猿賀神社)」

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