5901芦名沢アシナザワの観音さま(十和田山根)
 
                    参考:鹿角市発行「陸中の国鹿角の伝説」
 
 昔、昔、奈良時代と云う頃のことです。鹿角に孫七マゴシチ長者と云う長者が住んでいま
した。その長者には、一人の跡取り息子が居りました。
 また、砂沢スナザワの市兵衛館イチベエダテには、成田市兵衛と云う豪族ゴウゾクが住んでい
て、その豪族には、玉のように美しい一人の姫がすくすく育っていました。
 その長者の息子と、豪族の娘の姫は、何時イツの間にか、お互いに仲良しになり、恋し
合って夫婦になって一緒に暮らしたいと思うようになりました。
 ところが困ったことには、長者と豪族は、昔から何かあると喧嘩ケンカばかりしていたの
で、どう考えても、この一人息子と、美しい姫の結婚は許されそうにはありませんでし
た。
 
 そのうちに、美しい姫は長者の息子を恋しさに、とうとう重い病になり、床に臥フすよ
うになりました。
 また、息子の方も姫が病気になっていると風の便りに聞いたので、どうにかして見舞
いに行ってやりたいと思いましたが、親達が喧嘩ばかりしていることを考えると、自分
達の恋はとても叶えられる望みがないものと、嘆き悲しんで暮らしていました。
 ある晩バンゲ、病気になった姫に、どうにかして一目逢いたいものだと思った長者の息
子が、豪族の館の周りを歩いていたら、豪族の家来の人達に、怪しい曲者クセモノだと大声
で呼ばれて取り囲まれ、捕まえられてしまいました。
 
 次の日、豪族の家では、昨夜の曲者は捕らえて打ち首にし、病気であった姫もその曲
者に殺されてしまったと、みんなに言い振らして、急いで葬式を出してしまいました。
 しかし、姫の両親は、殺された筈ハズの姫と、打ち首にした筈の長者の息子を晴れて夫
婦にして、その夜のうちに鹿角から、遠くの方に旅立たせてしまったそうです。
 そして、二人の身代わりとして、牛馬長根ウシマナガネに放してあった馬二匹を連れて来
て、荒筵アラムシロに包み、これは姫の墓だ、これは曲者の墓だと言って、二つの墓を掘って
二匹の馬を生き埋めにしてしまいました。
 後で孫七長者は、打ち首にされた曲者が我が息子であったと云うことを知りましたが、
相手は豪族なのでどうすることも出来なくて、毎日毎日一人息子のことを思い出して、
寂しく暮らしていました。
 
 豪族の親達の上手い考えで、旅から旅へと楽しく二人で諸国を巡り歩きました。
 そうしているうちに、長者の息子の方は不幸にも旅の途中で病気になって、とうとう
死んでしまいました。
 残されて姫は、毎日毎日嘆き悲しみましたが、どうすることも出来ずに、葬式を済ま
せて、何処ドコにも頼る人もなくなり、また旅を続けて故郷の砂沢に帰って来ました。 
 砂沢に帰った姫は、昔を思い出しながら、自分達夫婦のため身代わりとなって埋めら
れた二匹の馬を哀れと思って、生き馬を埋めた森の辺りに寺を建てて、長者の息子であ
った夫オットと、罪もなく殺された馬達の供養をして、毎日毎日、念仏を唱えながら暮らし
ていました。
 
 こうした、長い年月トシツキが過ぎ、夫と馬達の供養をしていた姫は、世の儚ハカナさを深く
感じて、
「今まで死んだものたちの供養をして来たが、私が死んだ後も、私が祈ったように、此
処ココへ来て、このお寺を拝んだ人には、きっと良い馬を沢山授けてやろう。また、その
子供達は必ず幸せに暮らすことが出来るであろう」
と、周りの人々に言いながら、死んでしまいました。
 
 一方の孫七長者は、月日が経つに連れて、我が息子の打ち首は偽者ニセモノであったこと
や、旅に出て病気で死んだことも知って、今までの怒りも忘れて、先に死んでしまった
息子のことや、二人の身代わりに埋められた馬の菩提を拝みながら暮らしました。
 その後、遥々ハルバル都へ行き、十一面ジュウイチメン観世音菩薩カンゼオンボサツ像ゾウを申し受け
て帰って来て、お堂を建てて祀り、朝夕に一生懸命に拝みました。
 後で、このお堂は、金光明寺コンコウミョウジ十一面観世音堂と云われて、近くの人達だけで
なく、秋田の方や盛岡、青森の方からまで人々が集まって来て拝むお堂になったと云い
ます。
 
 また、平安時代の有名な坊さんである慈覚ジカク大師ダイシと云う人が立ち寄って、観世
音の仏像を彫って奉納し、
 
 陸奥ミチノクをかきわけゆけば芦名寺の 栄サカうためしに法ノリの華山ハナヤマ
 
と云う歌を詠んで立ち去りました。
 こうして、このお堂に拝みに来る人達は、段々増えて行って、お祭りは、沢山の人達
で賑やかなものでした。
 
 昔は百姓達にとって大切なものであった馬を欲しい人達は、このお堂に馬を連れて集
まって来て、沢山の良い馬が授かるようにと、絵馬エマを沢山奉納したものです。このお
堂は、こうした絵馬が沢山、昔のまんま残っているので有名です。
 このお堂の近くには、慈覚大師さまが仏像を彫るときに入ったと云う岩穴や、慈覚大
師が身を浄キヨめるために、水垢離ミズゴリを執ったとき着物を掛けた衣掛けコロモガケと云う
大きな岩が今でも残っています。
 
関連リンク 「神社の碑文(葦名神社)」
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