5901a芦名沢観音堂の由来
参考:鹿角市発行「十和田の民俗」
奈良朝の天平宝字年間(757〜764)に、鹿角の地に有名な長者が居り、その名を孫七
と云った。また、芦名沢の砂沢と云う所の市兵衛館に豪族が住んでいた。
何時しか孫七長者の息子と市兵衛館の姫が恋仲になったが、両家は仲が悪かったので、
この地ではその恋は実りようがなかった。
あるとき、病に伏した姫の許へ若者が見舞ったところ、捕らえられてしまった。姫の
両親は、二人を密かにこの地から逃し、『姫は曲者に殺害され、曲者は捕らえられ打首
にした』と言い触らし、二人の身代わりとして馬二頭を粗筵に包んできて生き埋めにし
た。
旅に出た二人は、諸々を巡り歩くうちに、若者は病死してしまい、独り戻った姫は、
身代わりに埋められた馬の近くに草庵に作り、夫の霊と二頭の馬の冥福を祈りながら、
念仏回向を続けていた。
その後、子細を知った孫七長者も、姫と共に回向するようになり、都に上って観世音
菩薩を申し受け、草庵の辺りに堂宇を建立したと云う。これが、金光明寺十一面観音堂
と呼ばれた。
後人がこれを伝えて、日に日に参詣者を多くしたと云う。
△芦名沢の由来
芦名沢には古い伝説があり、奈良朝時代に金光明寺十一面観音堂が建てられたとされ
ている。
藩政(江戸)時代には芦名沢観音堂と称し、馬産の神として広く信仰を集めてきた所
である。
この観音堂は昭和二十五年、宗教法人「葦名神社」となった。
観音堂の裏山に凝灰岩の石山があり、平安朝の貞観年中(九世紀中頃)に、慈覚大師
がここを訪れ、金像を彫って岩山に納め、これを法華山芦名寺と号したとも伝えられて
いる。既にこの芦名寺は無いが、神社の中に藩政時代の「芦名寺」と云う掲額が保存さ
れている。
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