5809花輪館跡(花輪)
 
                参考:鹿角市史編さん委員会発行「ふるさと散歩」
 
 古い歴史の町に住む人々にとって、丘の上の城跡に憩い、世の移ろいを偲びつつ、静
かに老松の梢を渡る風の音を聞くとき、心洗われる思いがします。
 中世の豪族花輪氏の居館は、初め古館にありました。沢小路を通って陣場の坂を上る
と、左に御休堂、右に深い空壕カラボリを巡らした高台が広がり、南側は急斜面となって福
士川の低地へ落ち込んでいます。現在果樹園となっている一帯が元、守モリ館、詣モウ館と
呼ばれた館跡なのでしょう。
 花輪氏は、いわゆる鹿角四氏のうちの安保一族で、長い間近隣に勢威を振るった末、
南部氏に屈し、天正年間九戸円子村へ所替えになりました。代わって大光寺正親が花輪
館に入り、花輪・尾去・石鳥谷・三ケ田・夏井の五カ村を領しました。約五十年の経営
の後、一時代官支配を経て、明暦三年毛馬内長次が館主となりました。
 
 延宝二年中野直保が花輪城代を命ぜられて以来、中野南部氏の居館として明治に至り
ました。今、小学校玄関前に「花輪城本丸・中野氏陣屋跡」という標柱が立っています。
花輪館が広大な構えを持っているのは、家臣約百名のほか御同心組三十名を預かり、秋
田藩境守備の重い任務を持っていたからで、幕府へは要害屋敷と云う名目で届けられて
いました。校舎の周りに土塁ドルイの一部が残り、館神八幡陣、御武具蔵、御物見の跡な
どがあります。現校庭の二の丸には、鹿角南半を治める花輪通ドオリ代官所が置かれ、年
貢米を収納する三棟の御蔵が並んでいました。沢口を上坂カミサカ、南館との間の大手口で
ある盆坂を中坂、北館(桜山)との間の搦手カラメテ口館坂を下坂シモサカとも云いました。
 
関連リンク 「その他神社の碑文[月下の神信仰](櫻山護國神社)」

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