5804a花輪町恩徳寺弥陀三尊の由来(参考:「曲田慶吉『伝説の鹿角』から」)
 
                    参考:鹿角市発行「花輪・尾去沢の民俗」
 
 是は文久辛酉年卯月吉日、赤石山恩徳十七世、住職の書かれた縁起によりて推定する
ものであるが、当寺に安置されてある古本尊、弥陀、勢至、観音の三体がある。
 是れが第四十五代聖武天皇の御代、天平年中即ち、紀元一三八九 − 一四〇七年頃迄
の間で今から約千百余年前、行基菩薩が一刀三体し賜ひて、彫刻したものであると言ふ。
そして成就するや、讃岐国志渡浦、道場寺に奉安した。瑞像であると言ふのである。
 是れが何故に当郡花輪町に伝へられる様になったかと言ふ次第に中々の由来がある点
に興味があるのである。
 
 その次第は、人皇第八十一代安徳天皇の御代寿永三年癸卯五月、紀元一八四三年に木
曾義仲、平氏を追討し京都は戦の巷と化した。平安朝末期の時である。
 同三年甲辰の年は改元されて元暦となり、源右衛佐頼朝平家を亡ぼす時は令であると
なし、一時も猶予して、機を失する勿れと言ふともので、伊豆国から義兵を挙げて総指
揮官として、浦冠者範頼を従へ出陣したのである。
 是に於て奥州にあって、身を潜めてあった弟義経、兄頼朝が怨敵平氏追討の為めに挙
兵した由をきゝ等しく部下に用意を致すべしと言ふもので、信夫の庄司の子佐藤三郎嗣
信、舎弟四郎忠信両人を、司令として、出羽奥州の武者へ、一々平家追討の檄文を回送
したのである。
 
 奥州五十四郡の鋭士、出羽十二郡の勇兵、夥しく集ひ来たのである。亀井六郎、片岡
八郎、武蔵坊弁慶以下多数である。
 此時鹿角から附従したる者は、安保氏の末孫大里行包、花輪次郎行房、秋本氏の後裔
黒土六郎、高瀬七郎、何れも其の催促に応じて到着したのである。
 かくして義経に随ひ、京、大坂を過ぎ四国の端まで出征した此の時に、鹿角から出征
した、大里上総、花輪次郎、黒土丹後、高瀬土佐の四人が非常なる乱軍の間に戦死した
のである。主人を失へる此の部下は集合して此の惨状を見て言ひ附けるは、
「此の度の戦は見る通りであったのだが、源氏の大勝たることは、実に明白である。然
れども、吾々は不運にして、各主君を失ひたるは終世の恨事である。今将に望の綱を失
ってしまった。さればとて他将の部下になり仕へることは、二君に仕ふるに似て決して
勇者の本意でない。さればとて主君を失って帰国するのは何の面目あって父老に見えん
やである。けれども、帰国しなければ、誰あって、主君の存亡を告げ知らせるものなし。
況んや追善供養の忌日だに知らせる事は出来ない。吾々はかく考へた時には進退並に全
く谷まり、雨難解け難き、場面に逢ってしまった。如何にすべきや」
と互に嘆じ合ったのである。
 
 然るに又さて言ひけるものあり曰く、
「さて此の雨難を突破するには、古賢を手本として進退を極めるより外にないではない
か。其の古賢の手本とは即ち是れである。熊谷次郎直実でさへも出家したと聞くではな
いか。此の場合、武士の甲鎧をぬぎ捨てゝ潔く法師の身となって主君の菩提を弔ふでは
ないか此の外に妙案はないと思ふが如何にと」
 一同此の妙案を如何にもと同じて直ちに同意して即座に髪を押し切り出家の姿となっ
たものである。
 
 それから第一に主君共の亡骸を葬るべしと言ふので、数千数万の屍の中から主君四人
の死骸をを尋ね出さんとして、あちら、こちらをさがして漸くに是れを、尋ねあて直ち
に、讃岐国志渡浦道場寺境内にこれを葬ることが出来たのである。
 かくして一先づ、安堵したものの武士の面目誠に勇しくもあり、悲しくもあり、中々
に悲壮を極めたものであった。
 
 かくして居る内に屋島の戦が始まったのである。今度の戦は、平家必死の戦である。
努力、力戦である為めに、其の兵火の余波は、神社仏閣にまで及び、あらゆる一切のも
のは、一朝にして、灰燼となり行く、惨状である。この為めに避難せる人は、此の浦に
も、彼処の山々にもあり、菩薩の姿、森にも林にも僧俗共に逃げ去り、仏像を始め、経
文一切、何れも雨にさらされ、風にも吹きまくられて誠に興のさめたる有様である。鹿
角の出身の新法師、此の惨状を眺めて曰く、
「いやいやこれは仏の幸であり、因縁である。あらた神仏を、風雨の為めに破壊し奉ら
んは全く是れ勿体なきこと吾等此の尊像を持帰り守り奉るべし」
とて、帝都をさして引上げてしまったのである。
 
 かくして帝都に上りし四人の法師巧みなる、士匠等を頼みて、笈を拵ひ、これに安置
して、六十六部の風体に装ひ、念仏申して、永の道中奥州出羽路をさして、発向したの
である。
 四人の法師、程なく奥州狭郡に下着した。こゝに於て、黒土村に、御堂を構へて一尊
を安置し、大里にも亦かくす。花輪次郎の従者法師赤石と言ふ所に庵室を建立して主君
の恩徳を報ずる一念から、恩徳庵と号して、四六時中、其礼讃を怠らず勤めたのである。
 
 その内に大里の尊像は不幸に逢ひて、遂に廃滅す。黒土の本尊は、領主、零落の後、
石鳥谷村に是を移して奉安してあったのである。然るに、檜山の合戦起りて民屋悉皆焼
却されたのである。かくして本尊をも消失して、亡くなった。又高瀬村の本尊のみ花輪
町の恩徳寺と言ふ寺に転じたと言ふことであるが、然し本尊の所在は不明である。只赤
石の弥陀三尊はのみ歴然として転変あることなく伝ったのである。是によりて、此の三
尊は行基菩薩の作であると言ふのである。
 赤石とは、今の曙村の夏井部落の地内にあったものであると云ふ。

[次へ進む] [バック]