5804恩徳寺オントクジ弥陀ミダ三尊サンゾンの由来(花輪)
 
                    参考:鹿角市発行「陸中の国鹿角の伝説」
 
 花輪の阿伽井趾山アカイシサン恩徳寺にある弥陀三尊(秋田県指定重要文化財)さまはね、
このような話が伝えられているのです。
「わがままな平家ヘイケを討ち亡ぼせ」
と云う都の天皇さまの命令を受けて、源頼朝が立ち上がったのは、今(平成四年頃)か
ら八百年も昔の治承ジショウ四年のことでした。
 このとき、平泉の藤原秀衡ヒデヒラにかくまわれていた弟義経は、兄の頼朝を援タスけるた
めに、奥州出羽の強い侍達を引き連れて、戦陣に駆け付けました。
 
 鹿角から義経に従ったのは、大里館の大里行包ユキカネ、花輪館の花輪次郎行房ユキフサ、黒
土館の黒土六郎、高瀬館の高瀬七郎の四人の武将と家来達でした。
 四人の鹿角武士達は連戦連勝、とうとう平家を四国まで追い詰めたが、屋島ヤシマの戦い
で、華々しく戦った挙げ句、残念なことに四人とも戦死してしまいました。
 それぞれの主人を亡くした四人の家来達は、あんまりの出来事にガックリしてしまっ
て、
「戦いは見る通り見方の大勝利だが、俺達はお互いに主君を戦死させてしまって、これ
からどうしたらよいだろうか。このまゝ帰って鹿角の人達に、何と言ったら良いだろう
か。けれどもまた、帰らなければ主君の戦死を知らせることも出来ない、あゝ、困った、
困った」
と、お互いに嘆き悲しんだけれども、とうとう、
「みんな髪を切って出家の身となって、ご主君さまの菩提ボダイを弔トムラいましょう」
と云うことになって、直ぐさま鎧ヨロイを脱ぎ捨て、髪を切って、お坊さんの姿になったと
云います。
 
 「さあ、まず、ご主君さまの亡骸ナキガラを尋ねて葬むろう」
と言って、何千人もの戦死者の中を尋ねて廻って、漸くお互いの主君の亡骸を探し出し
て、丁寧に葬りました。
 屋島の戦いは、あんまり激しくて、神社やお寺も焼けたり、壊されたりして、尊い仏
像やお経などもそこいら辺り一面に散らばっていました。四人のお坊さんは、
「この有り難い仏さまの尊像ソンゾウをご主君の亡骸の代わりに、家に持って行って拝みま
しょう」
と言って、立派な笈オイ(修験者などが仏像などを入れて背負う箱のこと)に仏像を入れ
申して、念仏を唱えながら、鹿角に帰って来ました。
 
 花輪次郎の家来のお坊さんは、石鳥谷イシドリヤの赤石と云う処に庵室アンシツを建てて、主
君の恩徳を称える意味から恩徳庵と名付けて、毎日お経を読み続けて、亡き主君の菩提
ボダイを弔いました。
 また、大里行包の代わりの仏像は、残念な事に火事で焼けてしまいましたし、黒土六
郎の本尊は石鳥谷に移して拝んでいたが、桧山合戦ヒヤマガッセンのとき焼けてしまいました。
高瀬七郎の本尊は花輪の徳正寺と云う寺に移されましたが、何時の間にか、何処へ行っ
たか、見えなくなってしまいました。
 今は、赤石にあった弥陀三尊だけ、花輪の恩徳寺に残されているのです。
 
 この木像の弥陀三尊の真ん中の仏さまは阿弥陀如来さまで、両脇のお供の仏さまは、
観音菩薩さんと勢至菩薩セイシボサツさんなのです。
 身体に悪い処のある人は、この中尊チュウソンの阿弥陀如来さまの同じ処を摩サスって拝みま
すと、その部分の病気が治ると信じられて来ました。長い年月トシツキの間、病気を治した
い人々に摩られた処が黒光りしているために、「黒仏クロボトケさん」と云われているので
す。
 また、今(平成四年頃)から九十四年前の明治三十一年に恩徳寺が火事になったとき
には、この三体の仏像ばかり、そっくり無事であったので、益々有り難い仏さまである
と拝まれているのです。
 
関連リンク [文化財 「YU10007 木像阿弥陀三尊」] 「仏閣の碑文(恩徳寺)」
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