5803十二川原と鹿角鎌カヅノカマの由来(花輪)
 
                    参考:鹿角市発行「陸中の国鹿角の伝説」
 
 昔ね、南部のある町で、旦那さんとお方(妻)と一人娘の三人で仲良く、大した良い
暮らしをしていた長者殿が居ました。
 けれども、お方が僅ワズかの病気が因モトで死んでしまいました。旦那さんは娘が遺され
て育てるのに困ってしまって、後妻ゴサイを貰いました。
 そうしたら何とこの後妻は、娘を可愛いがって育てるどころか、毎日惨ムゴい扱いばか
りして娘のことを苦しめました。
 
 娘が十五、六にもなる頃、旦那さんはとうう見るに見かねて、娘に乳母ウバを供に付け
て旅に出しました。長者殿の家で稼いでいた若い者二人も、娘さん達を守るために後を
追って家を出ました。
 娘と乳母は、ずうっと西の方へ向かって歩きました。野を過ぎ山を越えて何日も何日
も歩いて、とうとう皮投岳カワナゲダケのきつい山道を登りました。
 東山の峠から西の方を眺めたら、花輪の村が見えました。
「ああ、あそこまで行けば、頼える人も居るかも知れない」
と、二人は急ぎました。産土ウブスナの村に着いて、村の人達に聞いたら、
「此処ココから半道ハンミチ(二粁)ばかり行った処に、日向ヒナタ屋敷と云う処があって、其処
ソコに悦五郎鍛冶エツゴロウカジと云う偉い人ず居るから、行ってみたら」
と言うために、娘と乳母は喜んで日向屋敷へ向かいました。
 
 悦五郎鍛冶の家にへ行って見たら、成る程話の通り親切な人で、娘と乳母は家の台所
の仕事を手伝って暮らしました。
 そうしているうちに、後を追って来た二人の若者も花輪に着いて、悦五郎鍛冶の弟子
になって、一生懸命稼ぎました。昼間は鍛冶屋の仕事、晩バンゲは外に出て武術の稽古
ケイコを真剣にやりました。
 何年か過ぎたある年の春、娘と乳母は、
「花見をしよう」
と女森オナゴモリの方へ遊びに出掛けました。後妻ゴギに強シいられて後を追って来た十二人
の追手と、ばったり(出尻デッチリ)出合って、取り囲まれてとうとう殺されてしまいまし
た。
 この知らせが悦五郎鍛冶の処に届いたら、二人の若者は面色ツライロを変えて刀を手に執
って女森の方へ走りました。
 
 二人の若者は、十二人の追手達が丁度大久保の岱タイ辺りまで逃げたところで追い付き、
後ろから大きな声で、
「待て待てッ、人でなしども、お嬢様の仇カタキ、乳母どのの仇、尋常ジンジョウに勝負」
と斬りかかったら、たかが長者の後妻の使いの者どもはバラバラと後ろも見ないで逃げ
出したが、二人の若者はバッタバッタと十二人の者どもをなぎ倒してしまいました。
 このことがお上カミに知れると、二人の若者は、
「よくやった」
と誉められ、沢山褒美ホウビを貰いました。
 
 十二人の悪人を倒した処は十二川原と云いますが、今の花輪スキー場のロッジのある
辺りのことです。
 悦五郎鍛冶は、娘と乳母の葬式を立派に出してくれて、二人を三倉山ミクラサンに丁寧に祀
ってくれました。
 今、三倉山はね、鍛冶屋さん達の神さまになっていて、九月にお祭りをやっています。
 昔は花輪の上ミ、下モを合わせて鍛冶屋は三十軒もありましたが、南部の人達は花輪
で長者の娘とか、娘の仇を討トった人達は鍛冶屋の世話になったので、恩返しと云って、
鹿角の草刈り鎌を沢山買ってくれたものです。
 鹿角の草刈り鎌は、研ぎやすくて、柄を長く作り付けてあるため、鎌に力が入って草
が刈りやすいので、飛ぶように売れたものです。

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