5802a鹿角田畑開拓の由来(参考:「曲田慶吉『伝説の鹿角』から」)
 
                    参考:鹿角市発行「花輪・尾去沢の民俗」
 
 人皇第十代崇神天皇の御代の頃、花輪町の東方に聳ゆる、皮投嶽と言ふ山の、辺に年
々岩手県二戸郡の猟師マタキ来りて、熊を採りて其の皮を投げ捨てゝ行ったところから、此
の山の名が出たと言ふのである。
 
 或日の事、天気晴朗で、本当に日本晴の日であった。遠くの山々で、一望の裡にハッ
キリと見ゆる日、鹿角一円の地内は隅から隅まで見透しされる日であった。
 此の皮投嶽から眺めた鹿角の川筋は勿論、民屋に通ずる道路の、筋迄明かに見分けら
れてあった。其の中に鏡の如き一つの沼が見えたので二戸の猟師は此を見て、申すには、
「此の川筋並に、川目になって居る附近の沿岸を開拓して、田畑の耕作をすることにな
ったならば必ずやよい郡里になるべし」
と見済して、意を決するところあって、帰郷したのである。時は未だ、積雪のある季節
であったものであるから雪消えの春を待って、其の事を決行せんとしたのである。
 
 かくして二月も過ぎ三月も去って、愈々春の時候となったので、彼の猟師二戸から出
発して夫々の用意を整へ、鹿角開拓の為めに引越したのである。所は花輪の本館に居を
構へて愈々開墾の事に従事することになった。
 そして最初に着手した所は今の柴内村からであった。此の頃の柴内村附近は柴生え茂
り非常に木立もよく繁茂してゐる所であったから、此の地を、柴内と名付けて、漸く開
拓の歩を進め、鏡の如き不磨のほとりまで開墾して行ったのである。それが今の鏡田部
落の名称の起る所以である。
 
 それから漸次鏡田附近から一帯の田畑が開け行ったものと見えるが、彼の子孫は、代
々田畑開拓に従事し花輪の、今の今泉の辺りに居を移して、夏は開墾、冬は皮はぎ業と
して、後世に伝へたものである。それから人数を増して村をなし、其の開拓面積漸く増
加し鹿角三百町比内千町と言はれるところまでに至ったもので、それが今日まで漸次開
拓されて、鹿角の田畑をなして来たものであらう。
 此の伝説が牽強附会とか荒唐無稽と評するものがあっても、田畑開拓の起原を物語る
ものであることは地形上からよわかる。

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