5301伝説「錦木塚」物語
 
                       参考:鹿角市発行「十和田の民俗」
 
 人皇第十三代成務天皇の頃、鹿角市の十和田地区一帯は豊丘の里と呼ばれていた。
 朝廷では、郡司を派遣し、政治に当たらせたが、この辺りは乱れることが多く、人の
心は安らかではなかった。度々の乱れに、朝廷では狭名サナの太夫キミを郡司コオリノツカサとして
遣わされた。狭名の太夫は、この地に来て、実地を調べたところ、土地を耕作する人々
の、その土地の境界が明らかでなく、力の弱い者は、強い者に常に追われがちなことが、
乱れの最も大きい原因と判明した。そこで狭名の太夫は、土地の所有者の境界を明確に
すると共に、耕作道路や貯水池を新設したり、農耕の業を指導、また奨励の方法を講じ
たので、乱れていたこの辺りも大いに治まり、土地の人々は、狭名の太夫を讃え、その
徳になついた。
 
 朝廷では、狭名の太夫の治績を賞して、豊丘の里を改め、狭名の名を取り、狭布ケフの
里と称呼されることになった。狭名の太夫は、官にあること三十有余年、仲哀天皇の二
年、この里の辺りで亡くなった。
 狭名の太夫から八代目に狭名の大海オオミと云う人があり、この人の娘に政子と呼ぶ美し
い乙女があった。政子は綺麗で優しく、それは谷間に咲く白百合にもたとえられる娘で
あった。今の古川部落(十和田錦木)に住み、織物に専念し、そして部落の娘達にも、
織物のことを教えていた。
 織物は、狭布の細布ホソヌノと呼ばれ、その幅は約六寸、長さは十八尺(又は三十三尺)
とも云われ、これを宮廷への貢に納めたものと云われている。
 
 この頃、この村の南の方にある、五の宮と云う山から、大きな鷲が飛んできては、こ
の部落に遊んでいる乳児達をさらって行くのであった。子供を鷲に獲られた親の悲しみ、
村の悲しみの声は、部落に溢れ、村人はただ悲しみの涙を流していた。
 このようなとき、旅から旅へと仏の道を説く一人の僧が、この辺りを通った。そして、
子供が大鷲にさらわれる話を部落の人から聞き、
「それを防ぐには、白鳥の毛を織物に混ぜて織り、その織物で着物を作り、それを子供
に着せると、鷲が側に来なくなる。それを織るには、こうして織るのだ」
と、詳しく織り方を教えて去った。
 それを聞いた政子は、白鳥の毛を織物に混ぜて織ることに苦心し、習得した。そして
政子は、その織り方を部落の人に教えた。
 
 この部落から約二里離れた東の方に、草木(十和田大湯)と云う部落がある。この草
木に住む若人が、政子の美しい姿に心を打たれ、そして想い恋するようになった。
 その頃は、未だこの辺りに文字と云うものは無かったと云われ、心に想う女があれば、
その女の家の玄関に、美しい木の枝を一尺四、五寸に切り、三、四本を束ねて立て掛け
る習わしがあった。錦木(錦織木の訛か SYSOP)や桜、紅葉など、美しい枝を立て掛け
たものと伝えられている。
 男の立てる枝が千束になれば、たとえ女の方で心が向かなくても、男の想いが遂げら
れるのであった。
 
 若人は毎夜、政子の家の入口に、木の枝の束を立て続けた。二里の道を遠しとせず、
毎夜政子の家に立てる木の枝の束は、増えていったが、政子はこれを受け容れようとし
なかった。若人は、毎夜政子の家の辺りにたたずみ、胸をかきむしられるような想いを
抱き、そして夜の明け方、その付近を流れる涙川と云う川で顔を洗っては、トボトボと
家路につくのであった。
 
 政子は、若人の純情と熱意に心を動かされ、その立ててある美しい木の枝の束を家の
中に入れようとしたが、父の大海は、
「当家は今こそ、里人の中に落ちぶれてはいても、元は由緒ある家柄である。農人など
と結婚することは許されぬ」
と、冷たい言葉を政子に言うのであった。
 
 政子の家に、木の枝の束を立て掛け始めてから九百九十九夜、若人は遂に病の床に伏
し、そのまま失恋のうちに死んだ。若人死せりと聞いた政子もまた、清純な心に痛手を
受けたのか、間もなく若人の後を追うように、悲ししくも亡くなった。
 推古天皇の七年九月十三日のことと云われ、政子の父大海は初めて人の情にうたれ、
若人の亡骸を請り受けて政子と、その木の枝の束とを一緒にして、厚く葬った。村の人
々は、この世で一緒になることの出来なかった若人達のための供養として、銀杏と杉の
木を植えたのであった。
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