5300錦木塚ニシキギヅカ物語
 
                    参考:鹿角市発行「陸中の国鹿角の伝説」
 
 今(平成四年頃)から約一五五〇年程昔、今の錦木の辺りは「狭布ケフ(キョウ)の里」と云
われていました。そして、都から来た狭名大夫サナノキミと云う人が、芦田原アシダハラと云う処
にいて治めていました。
 その大夫キミから八代目になる狭名の大海オオミと云う人には、政子姫と云う名前のとって
も綺麗キレイなお姫さんがおりました。
 政子姫は、狭布の細布ホソヌノを織るのがとても上手でした。
 
 その頃、近くの草木クサギの里に、錦木を売る事を仕事にしていた若者が住んでいまし
た。
 錦木と云うものは「仲人木ナコウドキ」とも云って、縁組に使うものです。
 ある日、草木の若者は赤森の市イチのときに政子姫を見た途端、あんまり綺麗なために
心の底から好きになってしまいました。
 若者は毎日毎日、政子姫の家の門の前に錦木を立てました。
 その頃は、女の人の家の前に錦木を置いて、それを家の中に取って入れれば嫁に行っ
てもよい(結婚してもよい)と云う決まりがありました。
 若者は政子姫の姿を見てから、雨の降る日も、風の吹く日も、雪の吹雪く日も、一日
も休まないで錦木を持って来て立てました。
 けれども、錦木は一回も中に入れられないで、三年もの間立てられて、増えるばかり
でした。
 その度タビに、若者は草木へ戻る帰り道の側の小川で、涙を流して泣きました。その川
を涙川と云います。
 
 そのうちに、政子姫は機織ハタオリする手を休めて、そっと若者の姿を見るようになりま
した。
 そして、何時イツの間にか、政子姫は若者を好きになってきました。
 それでも若者は、門の前に錦木をいくら高く積んでも、政子姫の家では身分が違い過
ぎると言って、どうしても嫁に行く約束は出来ませんでした。
 それに、次のような訳もありました。
 
 五ノ宮さんのてっぺんに大鷲オオワシが巣を作って、古川の里の方へ飛んで来ては、子供
達をさらって行きました。
 それで、子供のいる親は仕事を休んだりして子供を守らなければなりませんでした。
 あるとき、若い夫婦が小さい子供をさらわれて、可哀想だ可哀想だと言って大きい声
を出して泣いていました。
 そこへみすぼらしい恰好カッコウをした旅のお坊さんが来て、
「これこれ、どうされた。どうしてそんなに泣いているのか」
と訊キきました。
 若い夫婦は、
「大鷲が飛んで来て、私の家の可愛い子供がさらわれてしまいました。その大鷲は、あ
っちの方に見える五ノ宮さんに巣を作っているのです。取り返すことも出来なくて、泣
いているのです」
「それは惨ムゴいことだ。良い事を教えて上げる。鳥の羽を混ぜた織物を織って子供に着
せれば、大鷲は後は子供達をさらって行けなくなります」
と言った後、何処ドコかへ行ってしまいました。
 
 布に鳥の毛を混ぜて織るのはとっても難しくて、余程機織が上手くないと出来ないも
のです。それで、機織がとっても上手い政子姫は、みんなから頼まれていました。政子
姫も子供をさらわれた親の悲しみを自分の事のように思って、三年三月ミツキを観音カンノン様
に願ガン懸けて、水垢離ミズゴリ(ハッコ清水シミズとも)を執って布を織っていました。
 その願懸けのために、政子姫は若者と嫁の約束をしなかったのです。
 若者はそんな事は知らないで、毎日せっせと錦木を姫の家の前に立てていました。
 あと一束で千束になると云う日に、体がすっかり弱くなっていた若者は、門の前の溜
まった雪の中に斃タオれて死んでしまいました。
 政子姫も、それから二、三日経ってから、若者の後を追っかけるように死んでしまい
ました。
 姫のお父さんの大海は、二人をとても可哀想だと思って、千束の錦木と一緒に、一つ
の墓に夫婦として葬りました。
 その墓所の事を、錦木塚と呼ぶようになりました。
 
  能因法師ノウインホウシ(平安中期の歌人。中古三十六歌仙の一人)
 錦木はたてながらこそ朽クチにけれ 狭布の細布胸あわじとや
 
  大江匡房オオエノマサフサ(平安後期の漢詩人、歌人)
 思ひかね今日たちそむる錦木の 千束チヅカにたらであうよしもかな
 
  石川啄木イシカワタクボク(明治後期の詩人、歌人。岩手県渋民村出身)
(「鹿角の国を憶オモふ歌」の一節)
 青垣山を繞メグらせる
 天さかる鹿角の国をしのぶれば
 涙し流る ― 今も猶、錦木塚の
 大公孫樹オオイチョウ、月良ヨキ夜は夜ヨな夜ヨなに、
 夏も黄金の葉と変り、代々に伝へて、
 あたらしき恋の譚ハナシの梭ヲサの音ネの
 風吹きくれば吹きゆけば、枝ゆ静かに、
 月の光の白糸の細布をこそ
 織ると聞け。
 
 参照[99鹿角の国を懐ふの歌(石川啄木)]
[次へお進み下さい]