1805大里館跡(大里)
参考:鹿角市史編さん委員会「ふるさと散歩」
村の入口に悪霊や疫病除けの注連縄シメナワが張り渡され、サイカチの莢サヤや赤南蛮アカ
ナンバンや紙垂シデなどが吊り下げされる、そんな昔ながらの風習を守っている土地は、鹿
角でも残り少なくなってしまいました。
中世の頃、大里オオザトが花輪を凌シノいでいたことは、武蔵国から移った安保アンボ氏の、
惣領は大里に住んでいた大里上総、二男は花輪次郎、三男は柴内弥次郎、と伝えられる
ことからも知られます。
建武中興の際、成田小次郎頼時が大里館を本拠に、南朝方の武将として転戦し、ある
時は北朝方の曽我氏、浅利氏の軍団の攻撃を受け、ある時は長駆して津軽大光寺城外を
占領しています。後の九戸クノヘ戦争には、大里修理親基が九戸政実麾下キカの重鎮として奮
戦し、栗原郡三迫サンハザマに屠腹トフクして果てました。
かつては城下町として四百軒もあったと語り継がれている部落の北側に、大里城跡が
壮大な規模で広がっています。本丸はへいぞう館の別名を持つ大館で、堀合を隔て東に
寺屋敷跡のあるしっぺ野、続いて八幡館、あぶみ館、ほうそう館が並び、また大館の北
は旗平ハタヘイ館、笹森館、人形館、下モ館が累々とした連なりを見せています。この間を
深い空壕が縦横に巡らされ、文字通り市内屈指の大館と言えます。
大里城跡
[次へ進む] [バック]