0901水沢地域と七郎左エ門(水沢)
参考:八幡平地区老人クラブ連合会老人大学学習記録集「八幡平伝承ひろい」
水沢地域に人が住むようになったのは、三四百年前と推定されるが定かではありませ
ん。その当時至る所に住居があったらしく、奥の切留平には七戸ほど、また狩人が住ん
でいたと云うイチゲト(一ゲト)は此処に一番先に住んだ所、なお西ゲト、桂ゲトなど
マタギの住んだ場所であったと云う。
その中で、平部落に七郎左エ門と云う人が住んでいた。その一族の住居として、平部
落の中程駒形神社の向かいにその屋敷跡が残っていると云う。
その頃、水沢川と熊沢川に挟まれた一帯には田圃らしい田圃はなく、人々は粟や稗な
どを食べて暮らしていた。そこで七郎左エ門は何とか用水さえあれば、この広い土地も
田圃に換えることが出来、皆の生活も楽に暮らせるだろうと思い込みました。
村外れの七面平と云う原野十町歩程、個人有の畑や雑木林が十町歩程が開墾可能と見
込み、日夜揚水に工夫を凝らしました。彼は相当の財力と勢力を持ち合わせていたよう
です。
江戸川の奥は鬱蒼たる広葉樹林があるため、取水口をこの江戸川として、平部落まで
の約三qに堰を掘り進みました。堰は一応は完成したものの、途中崖崩れのため通水出
来ず断念したとのことである。このことによって家運も傾き衰退の一途を辿りました。
その後の消息は分からず、七郎左エ門の建てたお寺の跡地は、今は平部落の人々の墓地
となり、その中に自然墓標だけが残されている。
この地一帯は昭和初期に開墾され、約八十町歩の田圃となっている。
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