0251石鳥谷の里(石鳥谷)
 
                参考:鹿角市史編さん委員会発行「ふるさと散歩」
 
 ふるさとの心を育て続けてきた古いみ仏の一つに、恩徳寺の弥陀ミダ三尊があります。
中尊阿弥陀仏は来迎ライゴウ印を結び、脇侍の観音は蓮台を捧げ、勢至セイシは合掌するいわ
ゆる来迎三尊で、鎌倉後半の作と見られます。
 縁起エンギには、寿永ジュエイ三年源義経の平家追討軍に参加し、屋島の合戦で戦死した花
輪次郎行房の従者が、主君の菩提を願うために志度浦道場寺からこの三尊を移し、赤石
に恩徳庵を建てて安置したのが、花輪阿伽井趾アカイシ山恩徳寺の起こりになったとありま
す。
 赤石は、三ノ岳の麓、石鳥谷の上ミ手にある、巨岩が幾つも露出している小山で、村
の人は神楽前とも呼んでいました。神楽カグラは恐らく切り立った岩山の意味のカクラで、
その下に恩徳庵が結ばれ、後に一時三光院もあったとのことです。
 
 此処ココもまた古戦場の跡で、永禄九年秋田近季麾下キカの侵攻軍が、由利勢松前勢に阿
仁比内の手勢を合わせ、石鳥谷城目指して、怒涛ドトウの如く攻めかかりました。鹿角の
旗頭石鳥谷九郎正友指揮の許モト、「長内縫殿助谷内弾正籠城仕ツカマツリ戦イ候得共ソウラエドモ
寄手大勢故数度ノ合戦ニテ石鳥谷ノ城落チ」、やむなく長牛城に退いた、と戦記は伝え
ています。
 今も本丸と思オボしき中館から、北へ一段二段と低くなりながら、八幡宮のある北館を
始め幾つかの館が並び、高く険しい斜面と深い堀跡を残しています。その裏山伝いに、
松館との連絡道が隠され、危急に備えたと云われます。
 
関連リンク [文化財 「YU10007 木像阿弥陀三尊」]

[次へ進む] [バック]