0806 道筋探訪「上折戸」
三ノ渡りの先、上折戸から旧道筋は、不老倉道と分かれて山路を登るが、今登り口一
体は杉林のため殆ど消滅している。
上折戸には伊勢北畠氏の落人旧跡があり、旧集落と福倉沢川を隔てて昌斎館(長斎館
)の館山、集落東側に北畠昌教卿の墓と伝える円墳が見える。
折戸の地名は「下り処」から起こったと考えられるが、その下り口が、墓域の西側と
不老倉道の分岐点に僅かに残っている。
山路へ差し掛かる、それぞれ名のある坂が、大明神まで葛折ツヅラオリに続いている。こ
の明神坂の上り道は、左は山際、右は千仞とも云える谷底を望みながら、深い木立の中
を行く。座当戻しは、上りと下りの踏み迷いやすい曲がり道、マタギウトウはウトウの
名の通り、長い窪み道である。
なお、馬オトシと云う所では、当歳のオス馬をここから追い落としたと云われている。
当時の農民には、馬を食べる習俗がなかったのであろう。また柳平からカヘ坂・畜生坂・
座当戻し・マタギウトウなど総称して明神坂と云う。
大明神の、御茶屋場を仮設したとみられる平場の傍らに、明神堂の朽ちた石祠が台座
の上に屋根だけ載った形で残っている。すぐ側に高さ70p程の自然石を刻んだ御題目塔
が立っているが、これは明治四十二年(1909)北秋田山本両郡の講中の建立である。
現在の山道は、この大明神の尾根より約15m下を通っているが、旧道と思われる道筋が
尾根を幾筋にも掘り窪めた道形で残っている。
鉢巻と言うに相応しく大きく廻り込んだ道を更に上ると、左上方に小柴峠壱里塚と思
われる塚様の地形も見える。カヂノ横渡りを過ぎて、大柴峠となる。
△上折戸北畠遺跡
天正四年(1576)織田信長に滅ぼされた伊勢国司家具教の遺孫昌教は、宇治・瀬田を転
々とした後、本願寺の庇護を受けた。やがて旧臣井上専正が花輪に専正寺を建立するに
及んで、鹿角に迎えられ、この折戸に隠住した。今大きな円墳状の塚の上に北畠昌教の
墓石が置かれ、その傍に蔦江姫桜の老樹、御殿水の泉、福倉沢川を隔てて昌斎館(長斎
館)などが跡を留めている。
△不老倉銅山
上折戸で来満街道と分かれ、そのまま安久谷川沿いに遡り、小又沢、鎌ノ沢、先達沢
などを縫いつつ進むと、不老倉銅山跡に達する。天和元年(1681)の発見、延享四年(
1747)から藩営となり、一時長崎御用銅をも出銅した。寛政六年(1794)減産と大雪崩
の被害により休山し、明治以降に再び復活している。不老倉は、旧称狼倉オイヌクラと言っ
た。
△明神坂
上折戸の上方、柳平から大明神まで半里余の坂道を総称して明神坂と云い、大明神に
は巡見使の御茶屋が設けられる慣例であった。
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