07 「東遊雑記トウユウザッキ」
 
 古川古松軒コショウケン(享保十一年(1727)〜文化四年(1864))は、天明八年(1788)幕府
巡見使に随行し、東北地方から北海道を巡った。その見聞を元に書かれたのが『東遊
雑記』である。備中国(岡山県)の生まれで、岡田藩の武士であった。年少の頃から地
理学を好み機会があれば各地を旅し、その足跡は全国に及び、多くの紀行文を残してい
る。その記録は、当時の世情を全国的な視野の下に記述しているところに特色がある。
鹿角滞在は天明八年九月三日から六日までであるが、その間に鹿角の様子を鋭く観察し
ている。
 
 八月三日、三戸から来満峠を越えて鹿角入りし、まず南部駒の良さを誉め上げている。
「南部の地、辺鄙ヘンピながら馬のよきには皆みな驚きしことにて、日々数百疋ヒキの馬を
見ることとなるに見苦しき馬はさらになし。何れもを見ても、一疋ほしきことなりとお
もはぬ人もなし。東海道・中国筋の馬とは違いて、幾疋一所に置きてもはね合い喰い合う
こともなく、乗りよく人などに喰いつくということを知らぬ体テイなり。南部立ての馬を
以て海道一と称せることもっとも道理なり。」
 
 八月四日、大湯を出て錦木塚に立ち寄り、巡見使は古例により細布を献上された。こ
こでは錦木塚伝説や狭布の里の風習を記している。「予この辺の風俗を見しに、今にて
も一村に一人か二人ならでは書を習う者なくて、皆みな無筆なれば、書状の文のという
ことはなし。婦人を慕うに染め木を立てしことは遠かるまじ。文章おもしろきまいらせ
候よりもたのしかるべし。今とても縄を結びて心覚えにせると聞きぬ。」また同日、松
山から尾去沢に入って尾去沢銅山の繁盛振りや、銅山が盛岡藩の台所を支えたことにつ
いて触れている。「松山より二里南に、尾去沢と称せる繁昌の銅山あり。大山にして古
より尽くることなく、今山に住居せる人三千余人、何れも山かせぎを以て業とせり。土
人のいえり、南部侯御台所は、銅山・良材・駒・黄蓮オウレン、この四つを以って御世帯となる
ことと物語りしなり。」
 
 八月六日は花輪を出て小豆沢の大日堂に立ち寄り、杉の大樹を見た。天狗橋を渡り、
湯瀬を経て田山村に泊まった。ここでは食事について興味あることを見聞している。「
湯瀬村という所わずか七、八軒ばかりの村にして温泉あり。土人にとうと、山中に入り
ては湯の出ずる地数ケ所ありという。ようよう田山村に暮前に着して互いにうさを語り
しなり。初めにいいしごとく、食事にはみなみな屈して、焼味噌に茶漬を好めども、そ
れも自由ならず。御馳走とて取り揃えて出せる料理、この二、三日は各おのふたをとら
ずして焼飯を好み、今幾日にて盛岡の城下に出ずることと、それを楽しみにて堪忍せし
ことなり。この夜出せし菜を見れば、豆腐の油揚に大鰌オオドジョウを二つ入れてあり。皆
みな驚き入りしことなり。このことを以て諸事を察し知るべし。おかしき地へ来たりて
珍しきことをも見聞、興になせり。」
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