101 狭布とは
参考:吉川弘文館発行「古事類苑」
「倭訓栞 前編九計」けふ
狭布をけふといふは音を略す、けふのほそぬのといふは文選読の如し、御拾遺集に、
けふのほそぬのむねあはじとやと見えたり、けふのせばぬのともいふとぞ、津軽のあた
りには、田を種る服に製す、たくりぬのといふともいへり、弘仁元年(810)の官符に、
応陸奥国浮浪人准土人輸狭布事と見えたり、会津風土記に、細布出伊北郷と見ゆ、今布
の名にいほうあり、是なり
「袖中抄 十八」けふのほそぬの
みちのくのけふのほそぬのほとせばみ むねあひがたき恋もするかな
顕昭云、けふのほそぬのとは、みちのおくにいてくるせばきぬのなり、せばければ狭
布とかきて、やがて声にけふとよみて、訓にほそぬのとよむ也、その声訓をあはせてけ
ふのほそぬのと云也、さればむねあはぬよしをよむなり、やがてけふのせばぬのともよ
めり
いたふみやけふのせばぬのはつはつに あひ見てもなほあかぬけさかな
うのはなのさけるかきねはをとめごが たがためさらすけふのぬのぞも
「類聚三代格 八」太政官符
応陸奥国浮浪人准土人輸狭布事
右当道観察使正四位下兼陸奥出羽按察使藤原朝臣緒嗣奏状称、陸奥守従五位上勲七等
佐伯宿禰清峯等申云、件浮浪人共欸云、土人調庸全輸狭布、至浪人特進広布、織作之労
難易不同、斉民之貢彼此為異、望請一准土人同進狭布者、国司検察、所申有実、但黒川
以北奥郡浮浪人、元来不在差科之限者、臣商量、此国地広人稀、辺冦惟防、不務懐柔、
何備非常、望令依件送者、右大臣宣称、奉勅依請
大同五年(810)二月廿三日
「延喜式 二十四主計」
凡諸国輸調、(中略)狭布二丁成端、長三丈七尺、広一尺八寸、(中略)
陸奥国(註略) 調、広布廿三端、自余輸狭布米穀、 庸、広布十端、自余輸狭布米
出羽国(中略) 調庸 輸狭布米穀、(中略)
越後国(中略) 庸、白木韓櫃十合、自余輸狭布鮭
「吾妻鏡 九」文治五年(1189)九月十七日甲戌、寺塔已下注文曰、衆徒注申之(中略
)
一毛越寺事(中略)
此本尊造立間、基衡(藤原)乞仕度於仏師運慶、運慶注出上中下之三品、基衡令領状
中品、運功於仏師所謂(中略)希婦細布キフノホソヌノ二千端、(中略)此外副山海珍物也
「後拾遺和歌集 十一恋」題しらず 能因法師
錦木はたちながらこそくちにけれ けふのほそ布むねあはじとや
「散木葉謌集 二夏」卯花作墻
卯花の垣根なりけり山がつの はつきにさらすけふとみつれば
「散木集注」けふとは布なり、けふの細布をおもひてよめるにや、けふとばかりにて
は、すこしくらくや
「新千載和歌集 十三恋」文保(1317〜1319)の百首の歌奉りける時 正二位隆教
いへばえにこがるゝむねの逢はでのみ 思ひくらせるけふの細布
「新拾遺和歌集 十二恋」寄布恋といふ事をよませたまうける 伏見院御製
よとともにむねあひがたき我恋の たくひもつらきけふの細布
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