121 「平泉志巻之下(抄)」
 
                      旧一関藩教成館學頭 故高平眞藤 編
                           編者離孫 菅原直諒 増注
 
大金堂円隆寺(だいこんどうえんりゅうじ) 
 
(東西十六間南北十四間)旧趾、今の常行堂の右にあり。 
元嘉祥寺にして鳥羽天皇勅して、円隆寺の号を賜ふ事、上文に述ふるか如し。内部の荘
厳、金銀珠玉を鏤め、紫檀赤木を接き美を尽し彩を極む。本尊は丈六の薬師十二神将、
日月二天を安置す。共に運慶の作なり。仏像に珠玉を以て、眼晴を入れ、威霊端厳にし
て彫手の精妙なる他に比類なしとす。 
 
常行堂、講堂、文珠楼門、鐘楼、鼓楼、経蔵相並へり。勅額は九條関白忠通公(前関白
忠実公男なり筆蹟最善し)。堂内の色紙形は、参議藤原朝臣教長卿(宇治左府の男にし
て忠実公の孫なり保元の事に座して常陸國に配流せらる)筆なり。本尊造立の際、基衡
の注文に応し、運慶上中下の品等を示せしに、基衡中等の作を請ひ、運慶に寄贈せしは
金百両、鷲羽百尾、七間間中径水豹皮六十枚、安達絹千疋、希婦細布二千端、糖部駿馬
五十疋(希婦は狭布にて陸奥鹿角郡の産糖部は同國二戸三戸九戸北郡四郡の古名なり古
へ北郡より尾駁の名馬を貢せしより尾駁の御牧と云り)白布三十端、信夫毛地摺千端、
其余山海の産物珍奇を洩さす、是に添へ、又生美絹を三船に積て、輸漕し、故らに練絹
を懇望に任せ此亦三船に積て輸漕し、其意に叶ふ。 
 
運慶一層精力を振ひ此仏像を、三年間に造成す。当時、其沙汰洛中に普くして、鳥羽法
皇の上聞に達しければ、即ち叡覧あるに当世無比の彫像たるを以て、他に出さす、洛中
に留むへき由宣下せられぬ。其衡之を歎きて、七日夜仏堂に籠もり、醤水を断ち、願望
懇切たるの情状を九條関白執奏ありけれは、遂に勅許を蒙り、奥に下して、寺堂に安置
するに至れりとそ。其の霊場荘厳に於ては、当時吾朝に双ひなしと云ふ(東鑑にも此事
を載す)。然るに、憐むへし。 
 
嘉禄二年『嘉禄二年は紀元一八八六年』の災に、堂像併せて、鳥有となり、堂趾に径五
尺余の礎石四十九並に周囲に渠石等残れり。現在の薬師石像は、後世村上治兵衛照信の
建立なり(基衡室の墓碑を建しも此人にして亨保年中『亨保年中「中御門帝」紀元二三
七六−九五年』の事なり)。 
 
附言東鑑に右大将文治五年奥州征伐の次て順覧し給ひし後、殊に信向ありて其荘厳の模
様を永福寺に写せりと。同脱漏に嘉禄二年十一月八日陸奥國平泉円隆寺暁六時に、此災
ある由、鎌倉中告廻る者あり、後聞時刻違はすといふことを記せり。
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