[鹿角の時は流れ行く]
11 鹿角の鉱山
 
[金山の発見]
 わが国の鉱業の歴史において、二度に亘る画期的な発展の
時代があったと云われている。
 一つは、七、八世紀の律令制古代国家の確立期、即ち天平
二十一年(749)陸奥国から初めて黄金が貢され、多賀国府
以北の諸郡の調・庸として金が納められた頃である。
 いま一つは、十六世紀から十七世紀前半へかけての、近世
封建体制の成立を見る時期でした。
 鹿角における古代の金山発見は、その産金によって奈良大
仏、東大寺盧舎那ルシャナ仏の滅金メッキがなされたとか、わが国
最初の産金地陸奥国小田郡オダゴオリとは現在の宮城県遠田郡
トオダグン元涌谷村黄金迫コガネハザマではなく、実は鹿角郡尾去
沢オサリザワ地内田郡タゴオリの小田郡鋪シキ周辺であったなどと伝
えられて来た。
 また奥州藤原氏の黄金文化を支える有力な産金地帯の一つ
として、鹿角があったとも云われて来た。
 しかしそれらを裏付ける遺跡や史料は無く、いわば伝説・
伝承として語られているに過ぎないと云う。
 次は慶長三年(1598)と云われる鹿角郡石野村の白根シラネ
金山見立と、引き続く十七世紀初頭の尾去沢五十枚ゴジュウ
マイ、槙山マキヤマ、西道サイドウ金山の発見は、正しく黄金盛行
ゴールドラツシュの到来であった。
 その状況を、盛岡藩士伊藤祐清スケキヨ(1749没)は『祐清私
記』の中で、次のように述べている。
 
 奥州鹿角白根・西道等の金山をば、北十左衛門不思議にて
見立てられ、慶長七年の春の頃より掘られければ、土百目
に金四五拾目より七八拾目を限り出る。
 其金色厚く清し。
仍て不来方コズカタの下知を以て領内の山子共を集め、日々夜
々に掘ければ、此の事諸国へ風聞し近国は申すに及ばず、上
は京・大坂・堺を始め商賣しければ、行衛も知れぬ流浪共、或
は浦々船頭共当座の渡世有り。さればかの金山へ来り山子と
なり掘る程に、慶長九年の夏の頃は、みよしという小麦或は
火石・大豆程の金入り交り樋トイへもかけず直ちに俵に入れる。
 此の如くの繁昌開闢カイビャク以来日本無双にてあるべしと諸
人申し合えり。
 依て伏見・大坂・大津・堺其外所々より商人馳ハセ下り、金銀・
絹布或は銭など両替し、近辺に家を建て、色々の賣物誠に美
々しく見えにける。
 町中に風呂湯屋まで二三ケ所に建て並べ、遊山ユサン町とて
諸方の戯気ザレケ女を呼び集め、田舎吟の小唄諷ウタわせ遊びけ
れば、程なく上方より小諷コウタ・三味線・今様イマヨウの上手共が
歌舞伎を伴って数十人下りしかば、当山日を追て繁昌し昼夜
乱舞遊曲しけり云々。
 鹿角物語[5404金の長芋(白根金山)]
 鹿角物語[54鉱山伝説「光る怪鳥」ほか(西道金山)]
 鹿角物語[03真金山鉱山の伝説(槇山金山)]
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