08a 石燈籠の展開
〈庭園の石燈籠〉
1 茶の湯と石燈籠
今日一般に見られる日本庭園の石燈籠は、織豊時代に始まり、江戸時代に徐々に一般
化し、明治以降に特に盛んになりました。今日、室町時代以前に造られた庭園の中に石
燈籠を見ますが、それは後世になってから入れられたものです。
第五の変革は、織豊時代における庭園の石燈籠(庭燈籠)の始まりです。庭燈籠は茶
の湯と茶庭の発達によって始まりました。その過程を次の三つに分けることが出来ます。
一つは、既成の寺社の石燈籠を茶庭に導入するとこ、二つは、既成の石燈籠を含む石造
物の断片を集めて茶庭向きの石燈籠を組み立てること、三つは、茶庭向きのものを新し
く設計製作すること、です。
茶の湯を侘びと数寄の茶道に大成させた千利休の頃、茶室と茶庭についても、草庵の
数寄屋とその露地と云う今日の原形が出来上がりました。そしてこの頃、石燈籠と茶庭
との最初の触れ合いが始まりました。当時の記録に、「何処其処の露地に燈籠があった
」とか、「どんな石燈籠が良い」とか、「その置場所は何処が良く、何時火を灯したら
良いか」などと記されています。天正十五年(1587)に千利休の書いた「台子ダイスかざ
り様之記」の中にも、「朝にても夜にても、石とうろに火ともしては、しゃうじを立る
物也」とあります。しかし、その頃既に何処の茶庭にも石燈籠があったのだ、と云うこ
とにはなりません。
寛永七年(1710)の序のある茶道の由来法式格言などを記した『貞要集ジョウヨウシュウ』
に、千利休のことに関連して次のようなことが記されています。
石燈籠路次に置候は、利休鳥辺野通りて、石燈籠の火残り、面白静成体思ひ出て、路
次へ置申候よし、云伝有之候、又等持院にてあけはなれて、石燈籠の火を見て面白が
り、夫より火を遅く消し申由云伝る
このように寺社から古びた石燈籠を茶庭に移す、と云う第一段階が始まりました。移
す条件(制約)として、@破損したり部分が失われたりして不用になったものであるこ
と、A大きさの制約です。時には火袋以外の構成部分を省略したり、竿の下部を地中に
生け込んだりしました。このようなことから、第二段階の寄せ燈籠が始まりました。古
さびたものを嬉ぶ茶人らしい発想です。京都・孤蓬庵コホウアンや東京博物館六窓庵ロクソウアンに
伝えられている寄せ燈籠がその例です。この寄せ燈籠も、うまい具合に茶室や茶庭、或
いはその人の好みに合った石造物の廃品が集まるとは限りません。そこで第三段階の茶
庭向きの、好みに合った石燈籠を設計し製作することでした。
茶庭向きの石燈籠は、その面白さ故に織豊時代頃から、書院庭園や広大な林泉庭園や、
時には古い寺院の庭園にも持ち込まれたり、庭園向きのものを寺社に献納すると云うこ
とも始まったと考えられます。
2 庭燈籠の創造
庭園に合う新しい石燈籠として、@小振りな寺社燈籠、A六角・八角型よりも四角型燈
籠、B磨滅した燈籠、C部分の破損した燈籠、D部分を省略した燈籠、E様々な形の寄
せ燈籠、F書院や草庵、茶室の外見、G大きな建物の遠望、Hその他燈火具などの条件
を考慮して創造されました。生け込みしたものから釣燈籠を参考にして脚付型に造り替
えたり、釣燈籠をそのまま石にした置燈籠が生まれました。三重塔や五重塔の遠望を模
して、既成石造層塔を基本として、層塔型石燈籠が生まれました。
従来の寺社石燈籠に比べて可成り大胆に造られて成功したものに、織部形・雪見形・層
塔形などがあります。織部形の著しい特色は竿にあり、下部は角柱状で上部が厚い円板
状、正面にそれぞれ人物形と文字風の刻みを入れるものもあります。この竿の形をクル
スと見、正面下部の人物形をキリスト像・マリア像・バテレン像などと見、更に上部の刻
みをキリシタン教義に結び付けて解説することが、一部の人々の間に行われました。そ
して生まれた呼称が「キリシタン燈籠」です。
雪見形の特色は四本の脚、大きな笠、巡り中ジュウ火口のような大きな窓などですが、
釣燈籠から派生したものです。層塔型には火袋がありますので、石燈籠として立てられ
たものです。
〈名物燈籠とその模刻〉
江戸時代になると庭燈籠の影響を受けて、寺社前の基本形石燈籠は、円型や神前形が
つくられたり、庭園用の変化型石燈籠がそのまま寺社へもたらされたりしました。
元禄・享保年間(十七世紀末から十八世紀初め)になると、町人層が石燈籠に関与する
ようになり、製作や流通量が増大しました。寺院や廟前の延長として、墓前にも立てら
れ始めました。
茶の湯の普及により、享保九年(1724)の序のある山科道庵ヤマシナドウアンの「槐記カイキ」
に、「今ノ世ノ、石燈籠ヲ置クコトイブカシ、オビタダシキ大燈籠ヲスエテ、見聞ノ為
トス、云々」と記しています。そして、庭園の景と云うことに満足せず、石燈籠そのも
のの美しさを観賞しようとの風潮が起こりました。石燈籠は変化型のものが主流となり
ました。また鎌倉・室町時代の古燈籠が、茶人などの目利きによって再発見され、それが
庭園に移されて中心景として据えられました。これらの古燈籠には数に限界があります
ので、第六の変革として、名物燈籠の概念とその模刻が始まりました。模刻によって出
来た石燈籠を、本歌に対して「写し」と云います。
江戸時代の造園書で北村援琴エンキンが享保二十年(1735)に著した『築山庭造伝前編』
には、南都般若寺・南都東大寺三月堂・南都はらひ堂・嵯峨太秦広隆寺・京都妙願寺の石燈
籠五基を挙げて「右五つを以て凡石燈籠の手本とす」と記しています。
寛政七年(1795)に津村淙庵ソウアンの著した『譚海タンカイ』に、大和春日明神祓ひ殿の春
日形石燈籠、京都八瀬市原町小町寺の小町形石燈籠、同相国寺の雪見形石燈籠はそれぞ
れ「本色」であると記しています。
文化十三年(1816)の高田與清著『擁書漫筆ヨウショマンピツ』に、橘寺のものを「年号を忘
るざれども、天下第一の古物と云うべし」として、春日祓殿社・春日社西屋・同柚木・東大
寺八幡宮・三月堂・般若寺文殊堂・秋篠寺・春日奥院・当麻の穴虫石・元寇興寺・太秦・大徳寺
高桐院・泉涌寺雪見形・浅草竹町の六地蔵石燈籠・相模宝泉寺観音堂などを挙げています。
文政十一年(1828)籬島軒秋里の著した『築山庭造伝後編』には、春日・二月堂(三月
堂の間違い)・白太夫・柚木をそれぞれ「形」としています。
文政十三年(1830)喜多村信節の著した百科事典『嬉遊笑覧』には、祓堂・二月堂(三
月堂の間違い)・高桐院・太秦を挙げて、「代に此の類あらたに写してもてはやす人はべ
る」と記しています。
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