08 石燈籠の展開
参考:誠文堂新光社発行「石燈籠新入門」
〈神仏前の石燈籠〉
1 平安時代以前
わが国における石燈籠の歴史は、仏教伝来間もなく始まりました。奈良時代前期と考
えられる奈良・春日寺の基礎は、白大理石製で、120p×106pの方形、その中心に径50p
深さ23pの円孔があります。この円孔へ木造の竿を挿入していたと考えられます。これ
がわが国最古の石製燈籠の部分と思います。中金堂と塔を結ぶ敷石参道の中央に、一基
だけしつらえていました。この燈籠は、中金堂本尊への献燈施設なのです。なおこの基
礎は、発掘後埋め戻されて、今は見ることは出来ません。
奈良時代後期になりますと、破損や風化が激しいながらも形を残している奈良・当麻寺
タイマデラ金堂前の石燈籠があります。また、奈良・興福寺五重塔前や、近年発見された同寺
中金堂前の基礎があります。中金堂前のものは、大きな花崗岩の上面に簡素な八葉蓮花
文を刻み出し、中心に径36p深さ48pの円孔を穿っています。飛鳥寺のものとよく似て
いますので、竿より上部が石造でなかったとも考えられます。五重塔前のものは、受座
中央に臍ホゾ穴を持つ今日の石燈籠に通ずる構造なので、竿より上部も石造であったと考
えられます。
この奈良時代後期に、石燈籠の歴史は新しい段階、つまり第一の変革を迎えました。
それは、神仏接近が進むに連れて、神社にも石燈籠が立てられ始めたことです。この時
代から平安時代前期にかけて、神仏習合と云って、神社と寺院との区別が曖昧になりま
した。この時代は神前読経、神前起塔、或いは神宮寺ジングウジの建立などが行われまし
た。
平安時代前期からは密教の最盛期のため、密教寺院の多くが山中で営まれたので、遺
品は殆ど見あたりません。
この時代の石燈籠は、凝灰岩系の軟質の石材が用いられました。前述の当麻寺金堂前
のものも、同寺後方の二上山付近から採掘された凝灰岩を用いていました。凝灰岩は加
工しやすいので、法隆寺の基壇を始め、平安時代以前に好んで用いられました。この凝
灰岩は風化しやすく、破損もしやすいと云う欠点があり、これが、平安時代以前の遺品
の少ない理由の一つです。
2 六角型の成立
鎌倉時代は石燈籠の黄金時代でした。この時代は石燈籠に限らず、石造美術全体の一
大隆盛期でした。そのため石材の需要が急激に増え、それに応ずる技術や生産体制も急
激に伸びかつ整いました。
この鎌倉時代と認められる遺品は、近畿とそれに隣接する地方に限られ、およそ百基
が知られています。
この時代の遺品は造形美術としても優れており、全体の形や均衡もよく、各構成部分
や細部の彫成も見事なものが多い。特に格狭間・蓮弁・蕨手・宝珠などの形、竿・火袋の装
飾など、後世に見られぬような創造も行われました。
第二の変革は、この鎌倉時代に六角型石燈籠が造られたことです。この六角型は新し
い設計によるもので、笠に蕨手を付けること、中台に側面を付けることが、ほぼ同時に
始まっています。この時代にも八角型も依然として造られていました。
この新しい六角型の典型的なものが建長六年(1254)在銘の奈良・東大寺法華堂前の石
燈籠です。
3 四角型の発生
第三の変革は、鎌倉時代末期にありました。それは、四角型石燈籠が造られたことで
す。現在知られている最古の在銘遺品は、正和五年(1316)の銘を持つ奈良・浄国寺のも
の(元は奈良・長法寺のもので、火袋と宝珠が後補)です。尤も、これより一年前の四角
型在銘のものが、大阪市・藤田美術館に所蔵されているとの調査報告もあります。次いで
奈良・春日大社の元亨三年(1323)在銘のものです。従来の八角型や六角型に比べて、
宝珠以外が四角形と云う簡略なものです。おそらく寺院よりも簡素な装いになる神社用
に創作されたものでしょう。そして、次の室町時代中頃から、個人が一基ずつ神社に奉
納する風が起きました。春日大社に見られるように、参道脇にずらりと並ぶようになり
ました。このことと、簡素な四角型の隆盛とに、深い関わりがあります。室町時代は四
角型の全盛期であると共に神社燈籠の隆盛期です。春日大社では、織豊時代のものを入
れると三百数十基を数え、京都・石清水八幡宮では三十数基を数えます。一方、寺院では
江戸時代以後のものによく見られます。
なお室町時代の石燈籠は、鎌倉・南北朝時代のものに比べて細部の技術が進んでいます
が、全体的に形式化していて力強さを失っています。石燈籠個々の弱さを、数で補って
いると云う感じです。
4 二基一対の石燈籠
第四の変革は、遺品による限り織豊時代に始まっています。それは二基一対の石燈籠
が造られたことです。今日では二基一対は普通と考えられますが、実はこれは比較的歴
史の浅いことなのです。室町時代以前の石燈籠で現在二基一対のものがあっても、それ
は後世になって同じようなものを二基集めたものです。多くの場合、左右何れかの一基
だけが古く、他の一基は、江戸時代頃にそれを模ねて造られたものです。現在知られて
いる二基一対の在銘最古の遺品は、京都・宝積寺の六角型石燈籠で、天正二年(1584)の
銘があります。
始めは神仏殿などの直前に立てられたものと考えられ、それが、次にはやや離れて一
対、と云うことを繰り返して、やがては江戸時代になって参道脇に並木立ちになったも
のと考えます。織豊時代では、神仏殿に今まで正面一基であったものが、左右二基一対
にになりましたが、参道脇の並木立ちはありませんでした。前述の春日大社の室町から
織豊時代の並木立ちは、一基ずつ奉納されて出来上がったものです。
また、織豊時代から江戸時代の始めにかけて、時の権力者の廟前や、尊崇を集めた有
名寺社に、諸大名が競って石燈籠を寄進しました。豊国廟・日光廟・石清水八幡などに見
られる豪華なものはそれです。
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