07 石燈籠の起こり
 
                    参考:誠文堂新光社発行「石燈籠新入門」
 
〈「燈籠」と云う名称〉
 現在の石燈籠は、「石」と「燈籠」に分割して説明できないことは、既に述べました。
しかし、石燈籠の起こりを考える場合、これを分割せざるを得ません。それでは、「燈
籠」とは何かを考えて見ましょう。
 現在、「燈籠」を「とうろう」と読んでいますが、この読み方はせいぜい室町時代ま
でしか遡れません。それ以前は「とうろ」と読んでいました。然もそれを表す漢字とし
て「燈籠」のほか、「燈爐」「燈楼」などが「燈籠」と変わらぬ頻度で用いられていま
した。奈良時代や平安時代前期においては、「燈爐」や「燈楼」の方が、寧ろ多かった
のです。石燈籠に刻まれる文字にしても、鎌倉時代から室町時代に至るまで、一番多い
のが「燈爐」です。室町時代末期には「燈呂」としたものもあり、織豊時代には「燈炉
」「燈楼」としたものもあります。そして、石燈籠において「燈籠」と刻むのは織豊時
代からです。
 
 ところで室町時代以前では、「燈爐」や「燈楼」、「燈籠」を「とうろ」と読んだの
でしょう。「とうろ」と発音できる「燈爐」こそ、今日の燈籠風のものに初めて与えら
れ、そして最初に一般化した漢字であったのでしょう。それでは「燈爐」と云う漢字が
最初に出て来たのは、「大般涅槃経ダイハツネハンギョウ」(涅槃経)と云う経典です。「油に
火を点じて明かりをとる器具」という意味に用いています。「燈楼」も中国に起源があ
り、灯を高く掲げるように工夫した形に由来する漢字らしいのです。また、「燈籠」も
「五分律ゴブンリツ」や「毘奈耶雑事ビナヤゾウジ」などの経典類に見え、「灯を保護する施
設のある燈火具」を指しています。すると中国では、意味あって三者使い分けられてい
た訳です。ところがわが国では、仏教に伴ってもたらされた新しい燈火具を、その形や
用法を問わず、一律に「燈爐」と書き表したらしいのです。恐らくわが国に比較的早く
もたらされ、然も主要な経典であった「涅槃経」の用字に由来するのでしょう。そして、
その音訓「とうろ」が、どんな漢字であれ室町時代まで続いた、と解すべきです。
 
〈献燈と燈籠〉
 わが国へもたらされた「燈籠」と云う言葉とその実体は、元来中国からのものでした
が、それは仏教と共にであり、その受容と展開も仏教に関係がありました。
 中国の石燈籠で然も仏教に関係あるものに、古い遺品として山西省太原の龍山童子寺
址と、牡丹江省寧安県の東京城南大廟前とにそれぞれ一基知られています。前者は唐代
作と考えられているもの、後者は渤海時代(七世紀〜十世紀前半)のものです。朝鮮で
は新羅統一時代(七世紀後半〜十世紀前半)の遺品が何基も知られています。これら中
国・朝鮮の古石燈籠は、何れも基礎・竿・中台・火袋・笠・宝珠などを備えており、わが国の
燈籠に通ずる構造のものです。
 
 これらの燈籠は、その原形が西域やインドに求められ、また三重塔や五重塔が中国で
出来たように、燈明を入れる建物として、中国で成立した形式と考えます。寺院の建物
とその配置(伽藍ガラン配置)が中国で整備されたことと関係がありましょう。中国や朝
鮮の遺品の現状によって窺われるように、恐らく塔や仏殿の正面に一基立てられたので
しょう。
 それは、仏に燈明を献ずるためです。仏に燈明を献ずること、つまり献燈は当初イン
ドにありました。その頃は今日の燈籠のような献燈施設としての「建て物」が未だ出来
ていなかったらいのです。仏に献燈することの功徳は、多くの経典に繰り返し説かれて
おり、「施燈功徳経セトウクドクキョウ」と云う経典がある程です。「業報差別経ゴウホウシャベツキョウ
」と云う経典には、
一、世をてらすこと燈の如く、
二、所生の処に帰って肉眼壊せず、
三、天眼を得る、
四、善悪の法に於て善智慧を得る、
五、大闇を除滅する、
六、智慧の明を得る、
七、世間に流転するも常に黒闇の処に在らじ、
八、大福報を具す、
九、命終して天に生ず、
十、速やかに涅槃を証す、
と十種の功徳を挙げています。そして、塗香・華・焼香などと共に、五種供養や六種供養
の中に加えられている程重要な供養とされています。したがって、専用の施設が伽藍の
一つとして造られたとしても不思議ではありません。
 
〈燈籠と石燈籠〉
 わが国に仏教が伝来して間もなく、飛鳥寺・四天王寺・広隆寺・法隆寺など、壮大な寺院
が次々に建立されました。それらの燈や仏殿の正面には、中国や朝鮮の例に倣ナラって、
初めから計画的に、一基ずつ燈籠が置かれていたと思われます。近年の発掘調査で、飛
鳥寺の金堂正面に石製の基礎一ケが発見されました。堂宇が全て木であったので、伽藍
の一つとしての燈籠も木造であったかも知れません。
 一方常夜燈とか永代燈など燈明を永く保とうと云う考え方も加わって、比較的早い時
期に、石か金属のものに換えられたと思います。そのようにして、わが国独自の石燈籠
が成立しました。現存するわが国最古の完好な燈籠である東大寺大仏殿前の金銅燈籠に
は、初期における木製燈籠の面影が窺われます。
 
 こうして展開し始めたわが国の塔や仏殿前など寺院の石燈籠は、やがて神社にもたら
されるようになりました。左右を一対にして二基を立てたり、何基も参道脇に並べたり、
また、ずっと後になって庭園にも立てられました。
 
〈古文所に見える説〉
 石燈籠の起こりについては、以上の通り分からないことが多い。ところがわが国には
従来、色々な説がありました。
 中でも『築山ツキヤマ庭造伝テイゾウデン後編』は、江戸時代後期文政十一年(1828)に籬島
軒秋里カキジマケンアキサトと云う人の著した庭園書で、その中に「石造神初而石燈籠造絵図」を
付す「石燈籠濫觴ランショウの事」という記事があります。
 
 和州橘寺は人皇三十四代推子天皇二年聖徳太子の御建立有し寺なり、此寺に今に伝建
 し石燈籠は日本に初て造し燈籠にして寺記に曰、抑此燈籠は入日子太神イルヒコノタイジン河
 内国丹比郡に山の池を作玉へる後池の辺なる道常に人の往来稀にして傍山に賊隠居り
 有時夜行の輩を見て無躰に争を云掛て衣類財宝を奪ひ取終には命迄取てける故に其跡
 をさからひの街と云、又さかろが辻さかろが池と云となん、(今その云へし所の道定
 かならず)此事神聞と召て弟の神石造の神石は堅固にして仁をくだかず火は陽にして
 暗を助くと云て石を以て燈籠を造らしめて暗夜の禍を避く神議に議賜へば終に此愁止
 ぬ、石にて燈籠を造る事本邦の始めなり、当寺に伝建る事は太神の御子神三厄の神の
 御廟当山の境内に築故に此燈籠を移し建と云々。
 
 石燈籠の起こりを説くために作られた見事なお話です。このことは、その後の庭園関
係書、百科事典、事物起源考などの書物に引き継がれました。そして、考古学的な石燈
籠の研究が行われる大正末まで、奈良・橘寺の石燈籠がわが国最古の遺品とされていまし
た。橘寺の石燈籠「橘寺形」を本歌として、模刻もされました。今も同寺庫裡の庭にあ
る南北朝時代の典型と云うべき六角型燈籠がそれです。
 
 とは云え、石燈籠は元来寺院や神社のものであって、庭園や個人の邸宅のものではな
かったことは、周知のことでした。例えば、天保元年(1830)喜多村キタムラ信節ノブヨ著『
嬉遊笑覧キユウショウラン』には、「古代は庭に石燈籠を置くことなし、石燈は寺院のものなる
を、茶湯者取りて庭に置きて見物とす」とあります。そして、誰が庭へ導入したのかを、
色々考察した古文献もあります。
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