(2) 『万葉集』の歌ことばと枕詞
 ところで、このような歌枕表現は、後述するように、『古今集』の時代、即ち平安時
代から始まり、『万葉集』の時代には、その萌芽は見られるものの、未だ十分に発達し
ていなかった。
 『万葉集』の歌語と云う時、すぐに思い出されるのは「つる(鶴)」に対する「たづ
」や「かへる(蛙・蝦)」に対する「かはづ」を歌語とする捉え方である。完了の助動詞
「つ」の連体形「つる」に「鶴」と云う字を借りたり、「楓カヘデ」の意の「かへるで」
に「蝦手」と云う表記を用いながら、和歌において「鶴ツル」や「蝦カヘル」を詠む場合は全
て「たづ」「かはづ」として「つる」「かへる」は一切用いなかったことからそう言う
のだが、これは、和歌に詠まれる語と日常生活に用いられている語の位相の違いを問題
にする歌語の認定である。しかし、かような立場だけでは、平安時代以降の歌語は扱い
切れないし、敢えて扱っても魅力のない論になってしまう。和歌の表現の在り方、更に
言えば、人々が言語の役割を事柄の表示や伝達だけに終わらせずに、情と美を表現する
ためのものとして捉えようとしていた時代の歌語論は、和歌の表現構造に深く関わり得
るものでなければならないのである。
 
 このような立場から、『万葉集』時代の和歌を見る時、この時代の和歌表現の根幹を
なし、かつ後代のそれに繋がって行く歌語として枕詞マクラコトバを第一に挙げなければなら
ない。
 ある調査研究に拠れば、『万葉集』の枕詞は五一〇余種、総使用回数一九〇〇余回で
あるのに対して、古典和歌の中心をなす三代集(古今集・後撰集・拾遺集)では二三〇種、
使用回数六〇〇回となる。三代集の総歌数約三八九〇余首に対して『万葉集』の総歌数
が四五三〇余首と多いことや、『万葉集』には長歌が多いことなどを考慮に入れなけれ
ばならないが、それでも矢張り枕詞は『万葉集』に著しく多いことが納得されると思う。
枕詞は、『万葉集』を代表する歌語だと言えるのである。
 
 しかし、枕詞が『万葉集』の時代になって初めて用いられるようになった訳でないこ
とにも注意が必要である。枕詞が、神託や寿言などの呪術的な言葉として発生し、祭事
と深く関わる歌謡の世界においてその展開と共に成長して来たことは、例えば『万葉集
』においても、「おをによし(奈良)」「おしてる(難波)」「そらみつ(大和)」「
ちはやぶる(宇治)」「つのさはふ(磐余イハレ)」など地名に掛かる枕詞や、「あしひき
の(山)」「ひさかたの(天・月)」゜ぬばたまの(夜)」など天象地勢に掛かる枕詞
が、語源や語義に不明なものを残しながら、後述する語義分明な枕詞よりも、かえって
力を持ち続けて来たと云う事実だけでも、枕詞の発生が『万葉集』以前の神や呪術の世
界、つまり詩歌以前の世界において、既に大きな力を獲得していたことは明らかと言え
よう。
 
 それに対して、同じ『万葉集』の枕詞でも、「草枕(旅)」「しきたへの(枕・袖・袂
)」「しろたへの(衣・袖)」「玉の緒の(絶ゆ・長し)」「まそ鏡(見る・見・磨トぐ・懸カ
く)」などの場合は、それぞれの実体がはっきりして意味の上から次の語に続いたり、
同音反復などの言葉遊びを媒介にして次に続いたりする修辞的な枕詞になり切っている
ことに注意されるのであるが、併せて注意すべきは、これらの枕詞が、例えば「玉葛
タマカヅラ」の場合、「花」や「実」などの物に掛かるほか、
 
 ・・・・・・玉葛 絶ゆることなく ありつつも やまず通はむ・・・・・・(万葉集・巻三)
 山高み谷辺にはへる玉葛 絶ゆる時なく見むよしもがも(万葉集・巻十一)
 
のように、蔓草の総称としての「玉葛」の性格に即して「絶ゆることなく」「絶ゆる時
なく」に続き、また、
 
 玉葛かけぬ時なく恋ふれども 何しか妹に逢ふ時もなき(万葉集・巻十二)
 
のように、「玉葛」は祭の時に頭髪に懸けるものである故に「かけぬ時なく」に続けて
いると云うように、体言ではなく、用言に繋がる例が多いと云うことである。語義不明
にも近い古い枕詞が、山や川や国や帝王を賛美する場合において、正しくそうであった
ように、枕詞は本来「物」を修飾する語であった筈だが、このように用言を修飾して和
歌全体の表現性・陳述性に関わる方向に変わって来ているのである。
 
 もう一例、「玉櫛笥タマクシゲ」の場合を見て置こう。この語は本来「櫛笥クシゲ」即ち櫛
などの化粧道具を入れる箱の意であったから、「蓋フタ」「身ミ」などの体言に結び付き、
更に「玉櫛笥二上山フタカミヤマ」とか「玉櫛笥三室戸山ミムロドヤマ」など「蓋」や「身」の音を
含む地名に同じく連体修飾語として掛かって行くのであるが、それだけではなく、
 
 恋ひつつも今日はあらめど玉櫛笥 明けなむ明日アスをいかに暮さむ(万葉集・巻十二)
 
のように櫛の箱を「開ける」「開く」の意から「明け」に掛かったり、
 
 はしきやし吹かぬ風ゆゑ玉櫛笥 開きてさ寝ネし吾ぞくやしき(万葉集・巻十一)
 
のように「開く」に続いたりするのであるが、
 
 玉櫛笥いつしか明けむ布勢の海の 浦を行きつつ玉も拾ヒリはむ(万葉集・巻十八)
 
になると、「玉櫛笥」は「いつしか」を間に置いて「明けむ」に掛かると共に、二句切
のこの歌の第二句までの陳述を統括していることに気付くのである。そして、これは次
に示す『後撰集』の用法に至る一里塚とも言える新しい用法なのである。
 
 玉櫛笥二年フタトセあはぬ君が身を 朱アケながらやはあらむと思ひし
                             (後撰集・雑一・公忠)
 
四位になれずに、五位の朱アケの衣コロモを着たままで藤原純友スミトモ追討に二年間も西下して
いる小野好古ヨシフルを慰めた歌であるが、枕詞「玉櫛笥」が、「二年フタトセ(蓋フタ)」「あ
はぬ(身と蓋が合わぬ)」「身」「朱(開け)」と云う掛語を媒介としながら縁語を統
括している王朝古典和歌の方法をここに確認すると共に、先に挙げた『万葉集』巻十一・
巻十二・巻十八などの例がこれと連続するものであることを、改めて実感するのである。
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