[詳細探訪]
 
                  参考:笠間書院発行「歌枕歌ことば辞典」ほか
 
〈歌枕と陸奥ミチノク〉
 歌枕への執心は古来陸奥に向けられることが多かった。陸奥は京都から遠く離れ、朝
廷の統治も行き届かない未知の地、未開の地であった。『古今集』の東歌などによって
伝えられた、この未知の地名への憧れが、京師の人々の間に空想的ロマンチックな印象を作り
上げていたのである。
 
 『奥の細道』は、松尾芭蕉が奥州各地などを行脚したことを著した俳諧紀行文である。
この紀行の目的は幾つかあるとされるが、主な動機は古えの西行・能因等の心に惹き付け
られ、陸奥の歌枕の地を訪れることにあったとされている。
 
 西行サイギョウ(元永元年(1118)〜建久元年(1190))は、平安末・鎌倉時代の歌僧で、
西行法師、円位法師とも云う。俗名佐藤義清ノリキヨ、鳥羽院下北面の武士として仕えてい
たが、保延六年(1140)二十三歳で出家した。
 出家後暫くは京都に住んでいたが、この間に和歌に精進する基礎と情熱が培われたと
見られている。その後、高野山に入り四十年近くも居住、『山家集サンカシュウ・サンガシュウ』は
その末年に形をなしたと云われている。治承四年(1180)六十三歳の頃、伊勢へ移住、
また臨終の時には河内の広川寺に住んでいたことが知られている。二度に亘る奥州紀行
を始め、讃岐紀行など、様々な旅を含めて、京都に住むことは少なかったにも拘わらず、
その和歌の評価は当時から高く、『新古今集』には九十四首も選ばれて最多入集歌人と
なっている。円位法師と云う名で『千載集』に初出、家集に『山家集』『聞書キキガキ集』
『山家心中集』『西行上人集』がある。
 
 『山家集』は西行の家集で、約千六百首(一五五二首とも)を三巻(上巻に四季、中
巻に恋と雑、下巻に雑)に収め、編者・成立年未詳である。歌風は平明で用語も自由、仏
教的世界観を基礎に歌境を広め且つ深め、自然詠と述懐とに秀歌が多いとされる。
 
 能因ノウイン(永延二年(988)〜没年未詳)は俗名橘永豈(立身扁+豈)ナガヤス、肥後守
橘元豈(立身扁+豈)の息、兄為豈(立身扁+豈)の養子となったと云う。中古三十六
歌仙の一。
 長和二年(1013)二十六歳で出家、今の大阪府高槻市古曽部に住んだので古曽部入道
と云われた。和歌は藤原長能に学び、これが歌道師承の先例とされ、主な活動は出家後
のことしか分からない。関白頼通家や祐子内親王家などにおける歌合にも出詠したが、
受領・家司など下級官人の私的な歌合などにもよく参加した。また旅の歌人として知ら
れ、西行などの先蹤センショウとなった。家集に『能因法師集』、私撰集に『玄々集』、歌学
書に『能因歌枕』があり、『後拾遺集』に初出。
 
 『能因歌枕』は、能因法師の著作と云われる。いわゆる名所歌枕に限らず、様々な歌
語を集めて配列、極めて簡単な説明を付している。広本と略本があるが、その関係は明
らかではない。古い文献に引かれている『能因坤元儀』とは別ものである。
 『能因集(能因法師集とも)』は能因法師の家集で、大別すると二種に分かれ、その
一種は自撰本ではないかと云われている。上中下の三巻に二五六首の和歌が詠歌年代順
に配列されている。
 他の一種は一五七首を春、夏・秋・冬・恋・雑に部類した系統。他集の混入もあり、他撰
かと云われている。
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