208 遊戯考[放鷹・蹴鞠・打毬・竹馬・独楽・紙鳶・鞦韆・印地・競渡・花火]
参考:吉川弘文館発行「古事類苑」
[放鷹ホウヨウ]
鷹を訓養して遊猟に供することは、仁徳天皇の朝に始まる。
文武天皇大宝の制、主鷹司を置き、兵部省をして之を管せしむ。
爾来鷹を訓養すること漸く盛にして、桓武天皇の如きは、南殿の帳中に於て親ら鷹を臂
にし給ひ、嵯峨天皇も亦新修鷹経を撰ばしめて、之を海内に施し給ふ。
然れども当時私に鷹を飼養することは、法の厳禁すると所なりき。
武家の世となりては、放鷹を以て武事を鍛錬し、民情を洞察するの資に供し、或は鶴の
御成、雉の御成、追鳥狩等と称して、一の儀式と為すものあり。
鷹法は持明院、西園寺両家の代々伝へし所にして、武家にては小笠原、禰津、宇都宮、
荒井、高田等の諸流あり。
近世に至り、尾張の人横井某、また竿鷹の法を創む。
鷹は中古より馬と同じく引出物となし、また鷹の捕りたる鳥を賞翫せしかば、鳥柴トシバ、
鷹の鳥の饗応など行はれて、其の式法を口授して伝ふるものあるに至れり。
小鷹狩
秋の野にかりぞくれぬる女郎花 こよひ計のやどもかさなん(紀貫之集 一)
大鷹狩
霜かれに成にしやどゝしらねばや はかなく人のかりにきつらん(紀貫之集 三)
幕府放鷹
民の戸ものどけき春の初とがり かりにも常のみちは有けり(中略)
(幕朝年中行事歌合 上)
御狩する駒場ののべに立うづら これも昔のしるべがほなる(幕朝年中行事歌合 中)
親王及臣庶放鷹
露霜の あきにいたれば ぬもさはに とりすだけりと ますらをの ともいざなひて
たかはしも あまたあれども やかたをの あが大黒に しらぬりの 鈴とりつけて
朝かりに いほつとりたて ゆうかりに ちどりふみたて おふごとに ゆるすことな
く 手放タバナれも をちもかやすき これをおきて またはありがたし さならべる
たかはなけむと 情ココロには おもひほこりて ゑまひつつ わたるあひだに たぶれた
る しこつおきなの ことだにも 吾れにはつけず とのぐもり あめのふる日を と
がりすと 名のみをのりて 三島野ミシマヌを そがひに見つつ 二上の 山とびこえて
くもがくり かけりいにきと かへりきて しはぶれつぐれ をくよしの そこになけ
れば いふすべの たどきをしらに(中略)(萬葉集 十七)
秋づけば 芽子ハギさきにほふ 石瀬野イハセヌに 馬たぎゆきて をちこちに 鳥ふみたて
白塗りの 小鈴もゆらに あはせやり ふりさけ見つつ いきどほる こころのうちを
思ひのべ うれしびながら 枕づき つまやの内に 鳥座トグラゆひ すゑてぞ我ワ飼ふ
真白部マシラフのたか(萬葉集 十九)
放鷹装束
おきなさび人なとがめそかり衣 けふばかりとぞたづもなくなる
(後撰和歌集 十五雑 在原行平朝臣)
名鷹
たかはしも あまたあれども 矢形尾ヤカタヲの あが大黒に(中略)(萬葉集 十七)
付枝
つれもなき人の心をとりしばに こがねのきゞすつけえてし哉(夫木和歌抄 五雉)
我たのむ君がためにとおる花は ときしもわかぬものにぞ有ける
(武家調味故実 伊勢物語)
進献
御狩せし代々のむかしに立かへれ かたのゝ鳥も君を待なり(無品親王)
御返事
みかりせし代々のためしをしるべにて かたのゝ鳥の跡をたづねん(御花園天皇御製)
(新俗古今和歌集 十七雑)
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